定年後の読書『蝉しぐれ 』藤沢 周平(著)で苦労を重ねてきた人生が反映された克明な心理描写を味わう

最終更新日:2017年10月5日

テレビの時代劇や時代小説は、中高年を中心に根強い人気を誇る定番ジャンルの1つです。

時代小説ファンに絶大な人気を誇る作家・藤沢周平の代表作「蝉しぐれ」は、テレビドラマや映画の原作にも採用されてきました。

1.江戸時代を舞台とした青春小説

原作を読んだことがないという人でも、テレビドラマや映画で「蝉しぐれ」を観て感動したという人は少なくないものです。

映像の原作となった長編時代小説「蝉しぐれ」は1986年に地方新聞で連載が開始され、2年後には単行本として出版されました。

現在までに単行本と文庫本を合わせた累計発行部数は120万部を超えるロングセラーとなっており、藤沢周平が残した時代小説の中で最も売れた作品です。

「蝉しぐれ」がこれだけ人気を集めた理由の1つとして、江戸時代を舞台とした時代小説でありながら青春小説としても読める点が挙げられます。

物語の開始時点で15歳の少年だった主人公の牧文四郎は、藩の権力闘争に巻き込まれて不遇の人生を送りながらも逞しく成長していきます。

3歳年下のふくに対する恋心や、小和田逸平・島崎与之助との友情も剣の道に生きる主人公の成長物語に彩りを添える要素です。

2.藩内の権力闘争に翻弄される主人公

単行本・文庫本ともに400ページを超える長編小説の「蝉しぐれ」は、全体が21の章に分かれていてそれぞれに章題がついています。

「朝の蛇」に始まって作品タイトルと同じ「蝉しぐれ」の章で幕を閉じる物語の中で、主人公・文四郎の15歳当時から20数年後の姿までが描かれているのです。

少年だった主人公が青年剣士へと成長していく過程では、父が切腹を命じられるに至った藩内闘争とも深く関わることになります。

主人公は藤沢作品の舞台としてよく登場する海坂藩で普請組の家系に養子となっていました。

その養父がライバル家老との政争に敗れて以降、母とともに普請組を追放されて不遇の生活が始まるのです。

海坂藩は現在の山形県に実在した庄内藩をモデルとする架空の藩ですが、藩内のこうした権力闘争はリアルに描かれています。

読者は史実に基づいた小説を読むような緊迫感を味わい、主人公の行末を案じながら息詰まるような武家世界の掟に一喜一憂することになります。

3.郷愁を誘う海坂藩の風景

海坂藩のモデルとなった庄内藩は山形県鶴岡市を城下町として、港町の酒田を含めた庄内地方一帯を知行地としていた藩です。

藩を統治していた酒井氏は徳川将軍家の譜代大名として古くから仕えていた家柄で、徳川家康の重臣として権勢を振るった酒井忠次の孫に当たる忠勝が庄内藩の藩祖となりました。

鶴岡市出身で若い頃は地元の中学校教員を務めていた時期もある藤沢周平は、郷土への愛着を生涯持ち続けていたことでも知られています。

郷土の原風景を形作っていた庄内藩の歴史にも人一倍関心を抱き、時代小説作家としてデビューして以降はこの庄内藩をモデルとした海坂藩を創造したのです。

「蝉しぐれ」「風の果て」といった長編小説以外にも、直木賞受賞作の「暗殺の年輪」や「山桜」「花のあと」など多くの短編小説で海坂藩が舞台となっています。

北国らしい田園風景を背景に、郷愁を誘う自然描写が生き生きと描かれている点が一連の海坂藩物で見逃せない魅力です。

4.苦労を重ねてきた人生が反映された克明な心理描写に純文学志向の人も納得

作者の藤沢周平は中学校の教師時代に肺結核を発症して休職し、1952年には大手術を受ける羽目に陥りました。

その療養生活で読書に親しんだことが、後の作家デビューにつながる文学的素養に役立ったとも言われてます。

退院後は郷里での教師復職が叶わず、藤沢周平は東京で業界紙の記者をしながら本格的に小説を書き始めました。

当初は純文学を目指していましたが、1963年に妻を若くして亡くしたのをきっかけとして時代小説に転じた経緯があります。

再婚後の1971年に短編小説「溟い海」がオール読物新人賞を受賞し、藤沢周平は40代半ばという遅いデビューを果たしました。

苦労を重ねてきた人生が反映されたその作風はすぐに多くのファンを掴み、翌年の直木賞受賞を経て人気作家への階段を上り詰めることになります。

それまで大衆色が濃かった時代小説に細やかな風景描写と克明な心理描写を導入し、目の肥えた小説ファンもうならせる文章力を発揮できたのも、藤沢周平がもともと純文学志向だった点と無関係ではありません。

5.時代小説好きなら読んでおきたい1冊

時代小説と言えば従来は活劇要素や講談調の文章で大衆の人気を集めていたジャンルでした。

それは一世を風靡したチャンバラ時代劇にも通じる娯楽的要素でもありますが、藤沢周平は山本周五郎とともにそうした時代小説のあり方を変えた功労者の1人です。

現在の時代小説は女流作家が得意とするジャンルとして広く定着しているように、繊細な心理描写や季節感を前面に出した自然描写も一要素として欠かせません。

現代に至るまでのそうした時代小説の大きな流れを作った藤沢周平の作品は、没後20年を経た今もなお多くの読者に愛読されています。

「蝉しぐれ」はそんな藤沢作品の代表作として、時代小説好きなら一度は読んでおきたい作品です。

現在でも根強い人気を誇る名作だけに、「蝉しぐれ」は単行本や文庫本が一般書店やネット通販を通じて新刊でも購入できます。

「蝉しぐれ 」は今でも違和感なく読める時代小説

最先端の時代風俗を描いた現代小説は時代とともに古びる運命が避けられないのと比べ、時代小説は現代の読者でも違和感なく読めるものです。

出版から30年以上が経ちましたが、「蝉しぐれ」で描かれた江戸時代の世界は当時も今も変わりません。

「蝉しぐれ」をきっかけに時代小説のファンになったという人も少なくないものです。