定年後の読書『ねじまき鳥クロニクル 』村上 春樹(著)で魂の最も奥深い場所まで降りていく

最終更新日:2017年10月7日

日本を代表する作家の村上春樹は軽妙な短編小説やエッセイも数多く書いていますが、真骨頂はやはり長編小説です。

中でも1990年代に4年半を費やして書かれた「ねじまき鳥クロニクル」は代表作の1つとして挙げられます。

1.三部構成の大作小説

1979年に長編小説「風の歌を聴け」でデビューした村上春樹は、1985年の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」あたりから小説が長くなる傾向を見せ始めました。

1987年の「ノルウェイの森」と1988年の「ダンス・ダンス・ダンス」はともに単行本で上下巻にわたる長い作品です。

次々と長編小説の新作を発表していた1980年代と比べ、1990年代に入ると執筆ペースがダウンしてきたように見えます。

それは「ねじまき鳥クロニクル」の執筆に1991年から1995年までの4年半を費やしたからでもありました。

文芸雑誌「新潮」に連載された第1部「泥棒かささぎ編」と書き下ろしの第2部が1994年に出版され、1995年には第3部「鳥刺し男編」が書き下ろしで出版されてこの大作が完結したのです。

合計3部からなる「ねじまき鳥クロニクル」は第47回の読売文学賞を受賞し、発行部数はこれまでに累計200万部を上回っています。

2.失踪した妻を取り戻す物語

「ねじまき鳥クロニクル」のあらすじを最もシンプルな表現で紹介すれば、失踪した妻を取り戻そうとする主人公の物語ということになります。

主人公の「僕」は会社を辞めて主夫をしながら、働く妻を支えている30歳の男性です。

飼っていた猫が行方不明となったのに続いて妻も失踪し、主人公の平穏な日常が狂い始めました。

「僕」は近所に住む少女の笠原メイや占い師の本田さん、間宮中尉、赤坂ナツメグとシナモンの親子といった人たちと出会いながら妻の行方を追います。

物語の舞台となるのはこの作品が書かれた1990年代ではなく、1984年から1986年にかけての3年間です。

妻の失踪には彼女の兄の綿谷昇が関わっており、暴力の象徴として描かれるこの義兄と主人公との対立軸がストーリーの重要な柱となります。

作中には過去に間宮中尉と本田さんが関わったノモンハン事件のエピソードも登場し、村上春樹が初めて暴力の問題と取り組んだ点でも注目される作品です。

3.冥界への通路を象徴する井戸

主人公の「僕」が失踪した妻を探し求める中では、井戸が重要なモチーフとして登場します。

ノモンハン事件で間宮中尉が井戸の底に数日間閉じ込められたというエピソードを受けて、主人公も自宅近くにあった古い井戸の底に降りてみるのです。

古井戸の中で見た白日夢の光景からインスピレーションを得て、主人公は井戸の底が異次元へと通じていることを確信します。

いなくなった妻を取り戻すためには、異次元へと通じる入口が必要だったのです。

同様のテーマはギリシャ神話で有名な冥府下りの物語にも通じます。

毒蛇に噛まれて死んだ妻のエウリュディケーを取り戻すため、吟遊詩人のオルフェウスはハデスの支配する冥界へと赴きました。

日本の神話でも火の神を産んで死んだ妻のイザナミを黄泉の国まで迎えに行くイザナギの物語が知られています。

こうした神話的モチーフを現代の小説に甦らせ、その周辺に1939年のノモンハン事件を含む数多くのエピソードを配した壮大な年代記が「ねじまき鳥クロニクル」です。

4.作者円熟期の意欲作

慢性的な不況にあえぐ出版界も、村上春樹の新作が発表された年はにわかに活気づきます。

村上春樹の作品がこれだけ多くの人に支持されているのは、魂を揺さぶられるような読書体験を求める人が今の時代にも少なくない証拠です。

村上春樹自身も人間を2階建ての家に喩え、記憶の残骸がある地下1階に降りていくような物語を書かなければならないとインタビューで語っています。

この地下1階は魂の奥深い部分に通じており、隠喩表現やさまざまな象徴を駆使することで、読み手の魂に触れるような物語が書けるようになります。

そうした深層心理と象徴との関係はユングの心理学にも通じますが、村上春樹はそれを小説の技法にまで磨き上げてきました。

40代を迎えた円熟期の村上春樹による意欲作「ねじまき鳥クロニクル」は、そうした独自技法の集大成でもあったのです。

5.現代の神話を読み解く

魂の最も奥深い場所まで降りていくような小説を書くには、古代人の魂を物語の形で表現した神話にも無関心ではいられません。

古代から現代まで人間の深層心理に連綿と受け継がれてきた魂の深い場所は、普段は光が当てられることのない暗闇に閉ざされているものです。

村上春樹は言葉を頼りにそうした魂の暗い部分にまで掘り進め、隠喩と象徴の光で照らし出して物語を作り上げてきました。

現代の神話とも言える「ねじまき鳥クロニクル」が発表から20年以上経った今もこの作品が読み継がれているのは、読み手の魂と共鳴する物語性を備えているからにほかなりません。

3巻に分かれた文庫版では合計1300ページを超える長い物語ですが、他人を癒やす力を持つ主人公を案内役として物語世界に身を委ねれば、魂が震えるような読書体験が得られます。

シニア世代にも親しみやすい「ねじまき鳥クロニクル」

村上春樹の作品もかつては若い世代を中心に読まれていましたが、作者は年齢を重ねた現在も精力的に執筆活動を続けています。

「ねじまき鳥クロニクル」に登場する音楽や映画は、現在のシニア世代にも親しみが持てる文化風俗です。

村上春樹ワールドとも呼ばれる独特の世界観が、3冊からなるこの大作の中にも詰め込まれています。