定年後の読書『天地明察 』冲方 丁(著)江戸時代の囲碁棋士・天文暦学者の渋川春海たちが目の前に生き生きと動き始める

最終更新日:2017年9月27日

江戸時代の囲碁棋士・天文暦学者の渋川春海は、日本独自の暦を作り上げた人物でもあります。

その渋川春海を主人公とする冲方丁の時代小説「天地明察」は本屋大賞を受賞し、ベストセラーを記録してブームを巻き起こしました。

1.映画化もされた大ヒット作

芥川賞や直木賞といった文学賞を受賞した話題作はよくベストセラーになりますが、そうした文学賞は必ずしも読んで面白い作品が選ばれるとは限りません。

その点で本屋大賞は選考委員の先生方ではなく書店員の投票によって受賞作が決まる仕組みが採用されているため、本当に面白い小説だけが選ばれる文学賞です。

「天地明察」も2010年の第7回本屋大賞を受賞したことがきっかけで話題となり、2年後には文庫化されてさらに売上を伸ばしました。

2012年には滝田洋二郎監督・岡田准一主演で映画化もされています。

「天地明察」は江戸の4代将軍・徳川家綱の治世を舞台とした時代小説で、作中には「水戸黄門」として知られる徳川光圀も登場します。

テレビの時代劇でも親しまれた時代が舞台背景となっているだけに、時代劇ファンの中高年には親しみやすい作品です。

一方で「天地明察」は、平均年齢が高かった従来の時代小説読者層より若い世代にも支持された点で新しさがあります。

2.暦にスポットを当てた痛快作

「天地明察」の文庫化に当たっては、裏表紙に記載された紹介文に「プロジェクト」という言葉が使われています。

主人公となる安井算哲こと渋川春海が関わった改暦事業は、将軍後見役として幕閣に重きをなした保科正之の命による一大国家プロジェクトでした。

それまで使われていた宣明暦は不正確な点も多く、運用に当たってさまざまな支障が生じていたのです。

プロジェクトの主役となった安井算哲は囲碁の名門・安井家の次男として生まれ、父の死後に二代目安井算哲を名乗っていました。

本因坊道策を好敵手に囲碁棋士として活躍する一方で彼は算術を無類の趣味とし、算術の問題を絵馬に記して神社に掲げた算額の問題を解くのに熱中するような若者です。

天文や暦に関する知識も豊富だった彼は保科正之や水戸光圀らに見込まれ、宣明暦に替わる日本独自の暦を完成させるという困難な仕事を引き受ける羽目に陥ったのでした。

3.個性的な脇役陣が活躍

漫画やライトノベルの影響もあって、最近のエンターテインメント小説では登場人物のキャラクターを重視する傾向が強まっています。

主人公のキャラクターはもちろん、脇役となる登場人物にも個性的なキャラクターを配することによって小説は何倍にも面白くなるという事実が発見されたのです。

「天地明察」がこれだけ話題を集めて若い世代に多く読まれた背景にも、魅力的なキャラクターたちの存在があります。

主人公の安井算哲は度を越すほどの算術好きな青年でしたが、「天地明察」はそんな彼の成長物語でもあります。

主人公が尊敬する算術家の関孝和は、難解な問題も瞬時に解いてしまう天才的な頭脳と激しい気性の持ち主です。

主人公の良き理解者となる水戸光圀は豪快な気質を持つ血気盛んな人物として描かれ、時代劇の「水戸黄門」とはまたひと味違います。

算額をきっかけとして知り合った女性・えんは、主人公との間でラブコメディに似たやり取りを繰り広げて作品に彩りを添える存在です。

4.作者の得意分野はSF小説

「天地明察」には時代小説でよくある立ち回りシーンなどは登場しませんが、そうした活劇だけが時代小説の面白さではないことをこの作品は証明しています。

山本周五郎に代表される人情物も時代小説の中で根強い人気を誇っており、最近は女性を中心とした時代小説作家に多くの秀作が見られます。

「天地明察」はそうした人情時代劇とも色合いが異なり、むしろ歴史上の出来事に焦点が当てられています。

実在の歴史的人物を取り上げた点では戦国時代や幕末を舞台とする歴史小説にも一脈通じますが、そうした作品では活劇シーンが重要な役割を果たしているものです。

江戸時代の改暦事業という一見地味な題材を取り上げながら「天地明察」が多くの読者に支持されたのは、算術や暦といった理系分野を時代小説に取り入れた斬新な発想と無関係ではありません。

作者の冲方丁はもともとライトノベルやSF小説の分野で活躍していた人で、理系的な発想力とライトノベル的なキャラクター造形を時代小説に持ち込んだことが大ヒットにつながったのです。

5.新しい時代小説の誕生

江戸時代を舞台とした作品でありながら、「天地明察」はある意味で現代的な小説だと言えます。

作中で生き生きと躍動するキャラクターたちは過去に実在した歴史上の人物と言うよりも、職場や近所など身近な場所にもいそうな人たちです。

日本独自の暦を完成させる国家的プロジェクトもまた、かつてNHKで放送されて絶大な人気を誇ったドキュメンタリー番組を彷彿させる面があります。

江戸時代をこうした現代的センスで再解釈した結果が、それまで時代小説や歴史小説に親しんでいなかった読者層に「天地明察」が広く受け入れられた現象につながっているのです。

このように書くと「天地明察」は若者向けの小説のように思われがちですが、若い世代より時代・歴史小説を受け入れる素地を多く持つシニア層でもこの作品は十分に楽しめます。

重厚な小説が苦手でも楽しめる「天地明察」

中高年の中にも時代小説や歴史小説があまり好きではなく、現代を舞台とした小説ばかり読んできたという人は少なくないものです。

そうした人でも「天地明察」なら抵抗なしに物語の世界に入っていくことができます。

読めば江戸時代という過去の時間に引き込まれ、渋川春海ら歴史上の人物たちが目の前に生き生きと動き始めるのです。