海外で活躍する日系人作家の中でも、イギリス国籍を持つカズオ・イシグロはノーベル文学賞を受賞しました。
彼の3作目の長編小説「日の名残り」は、イギリスで最も権威ある文学賞のブッカー賞も受賞しています。
1.古き良き英国貴族の世界
1954年に日本の長崎県で生まれたカズオ・イシグロは、海洋学者だった父親の仕事の都合で5歳のときに渡英しました。
両親が日本人でありながらカズオ・イシグロはイギリス人として育てられ、英語を母国語とする教育を受けてきたのです。
日系人と言っても日本語はほとんど話すことができず、小説家としての作品もすべて英語で書かれています。
そんな彼が国際的な評価を得るようになったきっかけは、1989年に発表した3作目の長編小説「日の名残り」です。
伝統ある屋敷で執事を務める主人公の優雅な語り口を通して古き良き英国貴族の世界が描かれたこの作品は、映画の原作にも採用されてカズオ・イシグロの名を一躍有名にしました。
この作品が受賞したブッカー賞は世界的にも高い権威が認められているイギリスの文学賞で、フランスのゴンクール賞にも匹敵すると言われています。
2.老執事の独白と回想
全編が老執事スティーブンスの一人称で語られる「日の名残り」は、1956年の「現在」と主人公が回想する1920年代から1930年代の過去とを往復する物語です。
いかにも英国紳士の執事らしい上品な語り口を通じて、名門貴族の直面する現在の窮状と過去の栄華が対比されています。
主人公が執事を務めるダーリントンホールという屋敷は、かつては主人ダーリントン卿のもとで極秘の国際会議が開かれるほど政治的にも重要な舞台でした。
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツの窮状を救おうとしたダーリントン卿の運命は、屋敷がアメリカの大富豪に買い取られた現在に象徴されています。
主人公は引き続き屋敷の執事を務めることになりますが、深刻な人手不足を解決すべく、かつて屋敷で一緒に働いた元女中頭のベン夫人に職場復帰を依頼するため小旅行に出かけます。
「日の名残り」はこの道中の1日目から6日目までが主人公によって語られる形式の小説です。
3.信頼できない語り手の文体効果
かつての主人ダーリントン卿を心から敬愛していた主人公の老執事は、主人の没落に関わる経緯を明確にしないまま小旅行を報告し続けます。
読者は細部が不明瞭な彼の語りを通して背景事情を想像するしかありません。
現在時制の中で主人公が職場復帰を依頼にしに行く元女中頭のベン夫人に対する恋愛感情もまた、同様に読者が想像力を働かせて読み取る部分です。
いずれも主人公が触れたくない過去の記憶を回避したまま語り進めることで空白が生まれ、読者が自由に推理を働かせる余地が生まれています。
ミステリー小説の分野でもこうした「信頼できない語り手」に語らせる叙述トリックがよく用いられてきました。
読者を欺く意図を持った語り手や精神障害・記憶障害を抱える語り手、子供の語り手などが「信頼できない語り手」の代表的な例です。
「日の名残り」の語り手は読者を欺こうとする狡猾な人物ではありませんが、結果的に同様の叙述トリック的効果が発揮されています。
4.寡作な日系作家の作風
ノーベル文学賞受賞も受賞した国際的評価が高いカズオ・イシグロですが、非常に寡作な作家としても知られています。
1982年の長編小説第1作「遠い山なみの光」と、1986年の第2作「浮世の画家」はいずれも日本人を主人公とした作品です。
「日の名残り」以降のカズオ・イシグロはほぼ5年おきに長編小説を発表し、英米でベストセラーを記録した2005年の第6作「わたしを離さないで」は映像化もされています。
ファンタジー的なストーリーで新境地を見せた長編小説第7作の「忘れられた巨人」は、実に10年ぶりの長編小説でした。
いずれの作品も主人公や登場人物には控えめで落ち着いた性格の持ち主が多く、物語を描く作者の筆致にも静謐さが漂います。
日本人両親のもとで5歳まで日本で育ちながらイギリスで教育を受けたカズオ・イシグロは、日本の小説からの影響がほとんど見られないイギリス人作家と言えます。
それでも彼の作品を特徴づけている端正な文体の中に、日本人的な資質を指摘する読者の声は少なくありません。
5.優雅な読後感も魅力
老執事の品格のある語りを通して英国貴族の華やかな世界を垣間見ることができる点もまた、「日の名残り」で見逃せない魅力の1つです。
この作品が書かれた1989年の時点ですでに、イギリスでもそうした古き良き貴族文化は失われつつある伝統でした。
貴族の邸宅で使用人全体を統括する執事という職業は現在のイギリスにも残されていますが、時代とともに使用人そのものが減ってきていると言われています。
作品に彩りを添える英国の美しい田園風景も含め、イギリスという国の素晴らしさを追体験できる点が「日の名残り」の大きな魅力です。
斜陽貴族を象徴するような老執事の語りに案内されながら、全編に漂うノスタルジックな雰囲気を味わうことで優雅な読後感が得られます。
憧れの英国文化を楽しめる「日の名残り」
イギリスの庭園や英国紳士のファッションなど、イギリスの生活様式は日本人にとっても憧れの対象でした。
そんな英国文化の伝統が小説を通して味わえる「日の名残り」は、日本の読者の間でも再評価が高まっています。
ストイックな老執事の語り口の中に、勤勉な日本人に似た精神性を読み取ることも決して不可能ではありません。