「備中松山城」と言われて、すぐにどこにあるのか?どんな城なのか?がわかる方はなかなかの歴史好きでしょう。
あの、大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像に使われた城と言われれば、わかる方もいるかもしれません。
今回はその備中松山城の魅力を語っていきたいと思います。
1.備中松山城の位置
備中松山城は岡山県の中西部に位置する高梁市の、標高430メートルの臥牛山山頂にある山城です。
そして、日本各地にあるお城の中でも特に珍しい現存十二天守のうちのひとつでもあります。
さらに、城の位置する標高430メートルというのは、天守のある山城の中でももっとも高いところにあるお城になります。
2.備中松山城の歴史
築城は、鎌倉時代の仁治元年(1240年)備中有漢郷の地頭、秋庭重信が築いたものです。
そののち、城主を何度か変えながら、規模を拡大していき、戦国時代の備中の戦国大名三村氏のもとで、大規模な城塞となりました。
天正二年(1574年)、三村氏が中国地方の覇者毛利氏より離反し、織田信長へ寝返った際には、この城を中心として、後に備中兵乱と呼ばれる三村氏と毛利氏の大規模な合戦がありました。
城は年を跨ぐ合戦ののち、毛利方の小早川隆景により落城し、ここに備中の戦国大名三村氏は滅びました。
その後は、関ヶ原の戦いまで毛利氏の領有となります。
毛利氏の後にも、江戸時代の際には何度か城主は移り変わり、最後の城主となったのは、幕末に老中も務めた板倉氏でありました。
その最後の城主となった板倉氏に仕えていた陽明学者・山田方谷という人物は、幕末の時代にあって先見の明とその辣腕をもって、藩政を立て直した偉人として、地元では有名です。
また、意外なところでは、あの赤穂浪士の主役大石内蔵助も備中松山城の藩主交代の際の城預かり役として、この城に入城しています。
このように、激動の時代と、また数多の人物たちがこの城には関わっています。
3.備中松山城の見所
備中松山城は標高430メートルの高地にあり、登城すればその眼下には高梁の町並みが広がります。
街の側には高梁川が流れ、雄大な山と川に挟まれた盆地を見下ろす、絶好の位置に城があることがわかります。
その偉容は街からも見つけることができ、高梁の駅についた時から、遥か山上にその天守はとらえることができます。
そして、登城してまず目に飛び込んでくるのは、雄壮な高石垣です。
山中に突如として現れる石垣の壮観さは目を見張るものがあります。
岩山にへばりつくようにして建っている石垣はどのようにして築かれたのか?そのことを思い馳せるとこの城の凄さが実感できます。
そして、その岩山に聳える姿は大河ドラマ「真田丸」では、真田氏の本城上田城のイメージとして撮られています。
真田氏の戦の城としてのイメージにぴったりの外観通りに、実戦的な山城である備中松山城は、当時の城の堅牢さを今に伝えています。
頂上までたどり着けば、山上に突然と現れる広場と天守閣が構えてあり、その内部も公開されています。
その広場でお茶をするのも、天守に登り、激動の時代の城主に思いを馳せるのも一興です。
また、備中松山城は天空の城としても有名です。
特に、秋から春にかけて雲海の発生する時期には、雲の上に浮かぶ雄壮な城の姿を見に訪れる方も多いです。
延々と続く山並みと眼下に波打つ雲海、そしてその中に泰然と姿を表している備中松山城。
その姿はまさに天空の城そのものです。
4.備中松山城へのアクセス
備中松山城へは、JR備中高梁駅から、徒歩なら約60分、バスで松山城登山口まで10分です。
土日祝日には、麓から登城口までのシャトルバスも運行しています。
足に自信のある方はハイキングがてらに、登城してみてはいかがでしょうか?
自然の山の中を歩き、登城した時の城の偉容には感動すること間違い無しです。
ただし、歩きが辛い方にはバスの利用をオススメします。
その登城はかなりの運動になります。
登城口からも一定は登りもありますので、足元には十分に気をつけてください。
備中松山城のある街、高梁を楽しもう
備中松山城に登城した後は、そのまま帰るのはもったいないです。
麓の街にも、当時を偲ばせる武家屋敷や屋敷通り、近世の文化人小堀遠州が築いた、枯山水庭園をかかえる頼久寺、岡山県下最古の協会堂である高梁基督協会堂などの見所があります。
また、古くから残る水路など、趣ある通りが残ります。
かつての城下町の賑わいを想いながら、町歩きしてみるのも一興ではないでしょうか。
また、高梁市にはあのTSUTAYAが監修した、蔦屋図書館もあります。
足が疲れた時に、コーヒーを飲みながら読書でひと休み、なんてことも可能です。
備中松山城に訪れた際には、是非お城だけでなく街の方へ、足を伸ばしてみてください。
必ず、魅力的な出会いがあります。