平成27年7月8日に国宝指定された松江城は、現存する12天守の一つであり、歴史的にも貴重なお城です。
実は松江城は、国宝から重要文化財に「格下げ」されていたという事実があります。
ご存知でしたでしょうか。
今回は、現存天守にみる松江城の価値と、65年ぶりの国宝指定にいたる背景、そして松江城の魅力をご紹介します。
1.現存天守としての松江城
日本にはかつて数万のお城がありました。
南北朝時代から戦国時代に作られた城は、3万から4万のお城があったとされますが、織田信長の時代以降、お城の数は減少していきます。
信長は城が戦術、戦略上の軍事拠点であることを熟知していました。
そのため、領内の統治を円滑に行うために、反逆の拠点となる城を徹底して排除していきました。
江戸時代に入ると、徳川幕府が出した「一国一城令」によって、数千から175城に減少します。
さらに明治維新後の「廃城令」にともない、城は解体されます。
解体したお城の木材が、風呂屋の焚き木として使われてしまった例もあります。
松江城もその例に漏れず、明治8年に広島鎮台が民間への払い下げを決定します。
危うく天守は取り壊されるところでしたが、地元有志の勝部本右衛門、高城権八らが資金調達に奔走し、買い戻されました。
その後天守は保存され、昭和10年に「国宝保存法」に基づき、国宝となりました。
廃城令のあとに残った天守はわずか60棟、1940年代には20棟に数を減らしていきます。
その後の戦火を逃れ、最終的に残ったのは、松本城、犬山城、丸岡城、彦根城、姫路城、備中松山城、丸亀城、高知城、松山城、宇和島城、そして松江城の12天守でした。
現在ではこの12天守以外にも、復興された天守があります。
しかし、それらはいずれも築城された当時のものではなく、資料に基づいてあとから再建された城であったり、外観のみ再建され、造りは鉄骨鉄筋コンクリートのお城であったりします。
中には本当に天守が存在したか分からないお城もあります。
そう考えると、築城から残されている「現存天守」がどれだけ貴重な、歴史的価値のあるものかが分かってきます。
2. 国宝から重要文化財への格下げ
昭和10年(1935年)に国宝として指定を受けた松江城でしたが、昭和25年(1950年)、国宝保存法に取ってかわり、「文化財保護法」が新たに制定されます。
この法律により、国宝の基準が変わり、松江城は重要文化財に格下げされました。
問題となったのは松江城の築城年です。
松江城は関が原の戦いのあと、堀尾氏によって築城されたと「言われて」いました。
昭和12年(1937年)の調査記録では、松江城創建に関わる2枚の祈祷札が存在したとあります。
しかし、その肝心の祈祷札が行方不明のままでした。
築城年が判然としない状況のため、国宝にするには、それがはっきりと分かる新知見が必要でした。
松江市は、この二枚の祈祷札を探すために奔走します。
3.悲願の国宝再指定へ
行方不明となっている2枚の祈祷札でしたが、市は有力な情報を提供したものには懸賞金を出すなど、さまざまな手段を講じます。
そうして平成24年5月、市職員が松江城の近くにある松江神社で、ついにそれらしきものを発見しました。
「慶長十六」と墨書きされた2枚の札です。
しかし、札には松江城を示す文言が書かれていませんでした。
松江神社は明治に創建された神社であり、札の時代とは関係ありません。
祈祷札はもともとどこのものであったかが問題となります。
そこで、市職員は、この祈祷札を松江城内になる柱に一つ一つ当てはめてみて、検証することにしました。
検証にさほど時間はかかりませんでした。
地の階にある向かい合った天守の柱2本に、ぴったりと2枚の札が当てはまったのです。
こうして、松江城の築城年は、慶長十六年、つまり1611年であることが立証されました。
平成27年5月に文化審議会で答申が行われ、7月8日に松江城は、晴れて国宝の座を取り戻しました。
それでは、国宝である松江城の魅力を次に見ていきましょう。
4.松江城の見どころ①-望楼型(ぼうろうがた)天守と附櫓(つけやぐら)
松江城の天守は、「望楼型(ぼうろうがた)天守」という種類に区分されます。
すべての天守は「入母屋造り(いりもやづくり)」という形で作られています。
「入母屋」とは、屋根のつくりを指します。
「切妻(きりづま)造り」の上部と、「寄棟(よせむね)造り」の下部、この二つの構造から成り立ちます。
「切妻造り」とは、開いた本を裏返してかぶせたような形で、二方向に向かって傾斜が広がります。
「寄棟造り」とは、四方向に傾斜が広がった形です。
そのため、「入母屋造り」の屋根は、建物の長辺側から見ると、台形をしています。
一方、建物の短編側から見ると、屋根は三角形に見えます。
この「入母屋造り」の屋根に、四方を見渡せる櫓、つまり「望楼」がのっているので、「望楼型天守」と言います。
松江城の望楼は360度見渡すことができ、宍道湖や鳥取の大山の絶景を望めます。
さらに、松江城の天守は、「複合式」の天守の形を取っています。
これは天守に「附櫓(つけやぐら)」と呼ばれる小さな建物がくっついている形です。
万が一敵が攻め込んだとしても、天守内に侵入されないように玄関先に空間をとり、迎え撃てるようにしたものです。
5.松江城の見どころ②-入母屋破風(いりもやはふ)と華頭窓(かとうまど)
屋根の端についている装飾部分を破風(はふ)と言います。
松江城は望楼式「入母屋破風(いりもやはふ)」に区分されます。
千鳥が羽を広げたような形が、松江城が「千鳥城」と呼ばれる所以です。
また、三層の中央についている天守の窓は、華頭窓(かとうまど)の様式が取られています。
寺院建築に多く採用される唐様の窓で、装飾性を重視した窓になります。
金閣寺や銀閣寺などの、禅宗寺院の仏殿でよく使われています。
6.松江城の見どころ③ー下見板張り(したみいたばり)と鯱(しゃちほこ)
天守の壁は厚い土壁でできています。
松江城の外壁は、土壁の上から板を張り、その上から柿渋と松煙を混ぜた墨で塗られています。
墨で塗っているため、壁は黒く見えます。
これを「下見板張り(したみいたばり)」と言います。
姫路城、彦根城の塗籠(ぬりごめ)造り(白壁のこと)よりも古い様式で、桃山時代や戦国時代の様式を受け継いでいます。
下見板張りは塗籠造りよりも耐久性があります。
塗籠は土壁の上に白い漆喰を塗ったものですが、欠点がありました。
風雨にさらされると、雨水が下地に浸透し、表面の漆喰が剥離してしまいます。
その点、「下見板張り」は、表面に塗ってある墨に、耐水性能がある柿渋を混ぜていますので、湿気や風雨に強いといえます。
松江城のある島根は、「弁当を忘れても傘を忘れるな」という言葉があるように、湿気も多く、一日の中で気候が変わりやすいことで有名です。
「下見板張り」は、雨の多い松江の気候にかなった造りであるといえます。
さらに、鯱は、天守にとって火除けの守り神です。
頭が虎で、体は魚の形をしている想像上の動物です。
火事になった時に、水を吹き出して消化してくれるとされています。
松江城の鯱は、銅版張木造で、木造の鯱では、高さ約2メートルと最大です。
国宝としての松江城を訪れてみよう
以上、松江城の国宝としての歴史と見どころをお伝えしてきました。
松江城が国宝として、また現存する12天守の一つとして貴重な形をとどめているのは、明治期の買い戻しに奔走した地元の有志、そして祈祷札を探し出そうとする松江市や市民の取り組みがあったからこそと言えます。
松江を訪れた際は、その歴史に思いを馳せながら、地元の人々に愛される松江城を堪能してみてはいかがでしょうか。