「徳川家康」は生涯健康に留意、忍耐力で天下を手中に!定年後シニアの手本

最終更新日:2017年12月27日

江戸幕府初代将軍の徳川家康は、日本史で最も有名な人物の1人です。

老獪な策略家を意味する「狸親父」のイメージで語られがちな家康ですが、戦国時代を終わらせ日本に平和をもたらした最大の功労者でもあります。

1.我慢に我慢を重ね天下を手中に

徳川家康は日本史の教科書に欠かせない歴史上の人物で、日本人なら誰もがその名を知るほど高い知名度を誇ります。

同時代を生きた織田信長・豊臣秀吉という2人の戦国武将と比較し、3人の性格の違いをホトトギスに託して巧みに表現した句はあまりにも有名です。

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」で信長の残忍な性格が表現され、「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」で秀吉の人心掌握術に長けた性格を言い表しています。

これに比べて家康は「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」と表現されたほどに、忍耐力が強い性格の持ち主でした。

功を焦らず先を見据えた行動に徹し、我慢に我慢を重ねて最後に天下を手中に収めたのが家康だったのです。

倹約と健康志向で長生きしながら生涯現役を貫いた彼の生き方には、シニアが手本とすべき点が少なくありません。

信長や秀吉と比べて地味なイメージもある家康ですが、知れば知るほど意外に魅力的な人物だと気づくものです。

2.天下泰平の世を実現した政治力

100年以上にも及んだ戦乱の時代を終わらせて天下泰平を実現させた徳川家康は、日本最長と言われた小説の主人公でもあります。

山岡荘八の「徳川家康」は徳川家康の実母・於大の方の結婚から始まり、家康の死に至るまで70年余りという長大な年月を描いた文字通りの大河小説です。

従来の徳川家康にはどうしても狡智に長けた腹黒い人物というイメージがつきまとい、「狸親父」というあまり歓迎すべきでないあだ名で呼ばれる例も少なくありませんでした。

「徳川家康」はそんな家康像を大きく覆し、戦国の世に終止符を打って平和な時代を築き上げようと懸命に努力する偉大な人物像が描かれています。

「徳川家康」の新聞連載がスタートしたのは太平洋戦争の悲劇から間もない昭和25年のことで、平和に対する作者の願いがこめられた格調高い語り口は多くの読者の共感を呼びました。

各巻500ページ前後で全26巻もある大作だけに読むのは大変ですが、この作品は各界の著名人たちにも愛読されたものです。

3.健康に留意し長生きを果たす

関ヶ原の戦いで勝利を収め天下を手中にしたのは家康57歳の年ですが、征夷大将軍に任命されたのはそれから3年後で還暦を迎える年です。

現在で言えばシニアと呼ばれる年齢になっても家康は江戸幕府の支配体制を固めるため精力的に働き続け、将軍職を後継者の秀忠に譲った後も大御所として実権を掌握し続けました。

戦のない世を実現させるのに唯一の懸念材料だった豊臣家も大坂の陣で滅亡に追いやり、全国すべての大名が幕府に臣従する堅固な支配体制を家康は存命中に確立したのです。

1人の人間が生きる間に成し得る最大限の仕事を達成したとも言える家康は、同時代に生きた戦国武将と比べても長寿でした。

61歳まで生きた豊臣秀吉は比較的長生きの方ですが、上杉謙信や武田信玄・北条氏康など戦上手で知られた武将はいずれも50歳前後で病死しています。

家康が当時としては長寿を保って満73歳まで生きられたのも、薬に関する専門知識を持つほど健康への意識が高かったおかげと言われています。

4.没後は東照大権現として神格化

徳川家康は最終的な覇者となりましたが、必ずしも軍略の点でライバル武将を圧倒したというわけではありません。

武田信玄や上杉謙信・北条氏康などは優れた武将でありながら、後継者に恵まれなかったために天下を逃した面があったのです。

天下一統を成し遂げた豊臣秀吉にしてもまだ幼い秀頼を残して世を去らなければならず、豊臣氏の天下は長続きしませんでした。

その点で徳川家康は徳川将軍家を中心とする盤石の支配体制を生前に築き上げ、自身の亡き後も戦のない平和の世が続くような仕組みに世の中を作り変えています。

高齢の家康がこの大仕事に徹底して取り組んだからこそ、後継者の器に関わらず幕藩体制が250年以上も続いたのです。

徳川家康は1616年に73歳で世を去りましたが、その死因は食中毒説や胃がん説など諸説があります。

あまりにも偉大だった家康は死後に神格化され、日光東照宮を総本宮とする全国各地の東照宮で東照大権現として祀られています。

5.企業リーダーも手本とした家康の人生哲学

1983年には山岡荘八の「徳川家康」を原作とするNHK大河ドラマも放送されて高視聴率を記録しました。

同年に大ブームを巻き起こしたNHK朝の連続テレビ小説「おしん」や「おしん横綱」と言われた隆の里と合わせ、「おしん・家康・隆の里」という流行語まで生まれています。

三者に共通するのは辛抱強い苦労人という点ですが、我慢に我慢を重ねた末に成功を収めたサクセスストーリーの主人公が人気を集めるのは日本に限った話ではありません。

若い頃に織田家や今川家の人質として過ごした家康だからこそ、天下が自身の手に転がり込むまで長年辛抱を続けることができたとも言えます。

徳川家康の偉業は彼1人で成し遂げたのではなく、主君の思想に賛同し忠誠を誓った多くの家臣に支えられながら全員で掴んだ天下泰平でした。

そんな家康の人生哲学は企業経営者の手本とされ、日本経済を支えた組織リーダーたちに貴重な指針を与えてきたのです。

忍耐力に秀でた徳川家康の生涯

織田信長や豊臣秀吉と比べると庶民にはあまり人気がないと言われた徳川家康ですが、そうした評価は歴史観の違いに大きく左右されるものです。

戦国の世を終わらせるには冷徹さや知略だけではなく、家康の持つ忍耐力こそが必要でした。

生涯現役を目指すシニアにとって、人間としての徳川家康には見習いたい点が多くあります。