「岡本太郎」太陽の塔を創った異端児の稀有な生き方に定年後シニアが学ぶことは多い!

最終更新日:2017年12月17日

「芸術は爆発だ」の名フレーズで知られる岡本太郎は、没後20年以上を経た今もなお熱烈なファンを持つ希代の芸術家です。

その刺激的で自由奔放な言動の陰には、太郎の強い信念と芸術に対する熱い想いがこめられています。定年後シニアがセカンドライフを考える時、参考になることが多いです。

1.生き方そのものが芸術だった稀有の日本人

漫画家の父・一平と歌人で小説家の母・かの子ともに奔放な人柄だったせいか、2人の間に生まれた岡本太郎も少年時代から厳しいしつけなど無縁の家庭環境で育ちました。

小学生時代には学校に馴染めず欠席がちで劣等生だった太郎は、成長するに従って父親仕込みの画才を発揮するようになります。

18歳の年に一家で芸術の都と呼ばれたパリに移り住んだのが人生の転機となり、両親の帰国後も一人パリに残った太郎は最先端の芸術家たちと交流を続けました。

ピカソの絵に衝撃を受けたことが芸術への迷いを断ち切るきっかけとなり、帰国と太平洋戦争での兵役を経て戦後の活躍へとつなげていきます。

当時の日本では画壇も年功序列的な価値観が支配的で、太郎の奔放な言動と原色を強調した作風は同時代の画家や批評家たちから反発を受けました。

そうした反応にも果敢に挑戦し続けて独自の芸術を追求し続けた太郎は、まさに生き方そのものが芸術だったと言っても過言でない人物だったのです。
定年後シニアも、もう年功序列を気にすることはありません。幼少期に興味を持っていたことを思い出し、思う存分、自分の個性を追求しましょう!

2.既成概念を覆した異端児

岡本太郎に大きな影響を与えた芸術家としては前述のピカソも挙げられますが、20世紀芸術最大の巨匠からは抽象画が持つ無限の可能性を会得したとされています。

具象的な風景や人物を描いた絵は、どうしてもその国の文化や生活様式と無縁でいられません。

これに対して抽象画は民族や国境の壁を乗り越え、伝統に縛られない自由な表現が可能だという事実に太郎は気づいたのです。

一方では40歳の年に東京国立博物館で縄文時代の火焔土器を見て大きな衝撃を受け、「四次元との対話―縄文土器論」を発表した点に岡本太郎独自の感性が見て取れます。

パリ在住の頃にも芸術活動を一時休止し、「贈与論」で知られる文化人類学者のマルセル・モースに民族学を学んだ時期がありました。

縄文土器以外に続いて男鹿半島のナマハゲ面など東北地方の民俗や琉球列島の伝統文化から「原始日本」のパワーを得た太郎は、既成概念を覆す革新的な作品を次々と生み出していったのです。
岡本太郎の芸術に触れることで定年後シニアも、身の内に渦巻いている原初のパワーを思い出せます。

3.万博テーマに反発しながら制作した《太陽の塔》

西洋文化の伝統からも日本文化の伝統からもはみ出した岡本太郎の作風は、彼が「絵画の石器時代」と呼んだ保守的な画壇にはなかなか受け入れられませんでした。

戦後日本の美術界にあって異端児に位置づけられていた岡本太郎はマスメディアにも積極的に出演し、大衆的な人気を集める存在となっていきます。

高尚なイメージで語らがちだった芸術家像を大きく覆す活躍を続けていた岡本太郎に、国家的プロジェクトの一翼を担う大仕事が転がり込んできたのは彼が57歳の年でした。

東京オリンピックとともに戦後日本を象徴する一大イベントとなった大阪万博のテーマ展示プロデューサーに、岡本太郎が選ばれたのです。

このとき太郎が制作した《太陽の塔》は彼の代表作となりましたが、太郎は「人類の進歩と調和」という大阪万博のテーマに反発しながら制作に取り組みました。

《太陽の塔》は高さ70m、直径20m、腕は長さ25mです。万博会場のお祭り広場に建てられました。

《太陽の塔》には3つの顔がついています。現在を象徴する正面の「太陽の顔」と、過去を象徴する背面の「黒い太陽」、そして未来を象徴する「黄金の顔」です。謎の第4の顔も地下にあったらしいです。

内部には呪術的空間が広がる中に、「生命の樹」があり、生命を賛歌する曲が流れています。「生命の樹」は生命の源であるエネルギーの根源の象徴です。その樹に単細胞生物から人類の誕生までを、原生類時代、三葉虫時代、魚類時代、両生類時代、爬虫類時代、哺乳類時」にわけ、そ時代を代表する生物を展示していました。

一番上の太陽の空間には、次のような太陽への賛歌が刻まれています。「太陽は人間生命の根源だ 惜しみなく光と熱をふりそそぐ この神聖な核 われわれは猛烈な祭によって 太陽と交歓し その燃えるエネルギーにこたえる」
この猛烈な自分独自の祭りを定年後シニアも何か、作って見たいものですね。それがセカンドライフを生き生きとしたものにするでしょう。

4.公私のパートナー敏子に支えられた晩年

芸術作品の制作ばかりでなくテレビ出演や評論・エッセイの著作活動など、多方面にわたって精力的に活躍してきた岡本太郎は晩年に至っても創作意欲が衰えなかったことで知られています。

昭和の高度経済成長期をエネルギッシュに書け抜けた希代の芸術家・岡本太郎も、1990年代の晩年はパーキンソン病を発症して闘病生活を余儀なくされました。

芸術家の命とも言える手が病の影響でだんだんと動かなくなる中、老いとも闘いながら太郎は創作を続けて生涯現役を貫こうとしたのです。

そんな太郎を献身的に支えたのは、彼の秘書として芸術活動や著作活動のパートナーを務めながら養女となった岡本敏子でした。

母・かの子の影響で自由恋愛を標榜するあまり独身主義者となったと言われる太郎にとって、岡本敏子は事実上の妻とも言える存在です。

彼女に支えられながら晩年を過ごした岡本太郎は、パーキンソン病に伴う急性呼吸不全のため1996年に84歳の生涯を終えました。

5.再評価が進み著作も数多く復刊

晩年は病気の影響もあってテレビ出演などのメディア露出機会も減り、著作の大半も絶版となっていた岡本太郎ですが、死後になって再評価の機運が高まりました。

その動きに大きな役割を果たしたのは、太郎の秘書として著作の口述筆記も務めていた岡本敏子です。

彼女が太郎と生活を共にした自宅兼アトリエは、彼が亡くなった2年後に岡本太郎記念館として一般公開されています。

現在でも全国各地の美術館で岡本太郎の作品展が開催されると、若い世代を中心に行列ができるほどの人気ぶりです。

「今日の芸術」など絶版となっていた太郎の著作も次々と復刊され、多くの読者に読み継がれてきました。

中学生でも理解できる芸術書の執筆を出版社に依頼されて書いた1954年出版の「今日の芸術」は、当時のベストセラーとなった太郎の代表的著作です。

その中に書かれている「うまくあってはならない。

キレイであってはならない。

ここちよくあってはならない」という太郎の芸術論は、第2の人生を模索中のシニアにとっても有意義な指標となります。

岡本太郎の生きざまを調べてみよう

「芸術は爆発だ」がギャグのように使われていたほど、岡本太郎は大衆的な芸術家として親しまれた人物です。

太郎が残した芸術作品はもちろん、彼の人生そのものや名言の数々も若者からシニアまで幅広い年代の人々を魅了してきました。

岡本太郎の生き方と思想には、復刊が進む評論やエッセイなどの著作で触れることができます。