「寺山修司」定年後シニアも手本としたい寺山修司の生涯現役の生き方

最終更新日:2017年12月12日

多彩なジャンルの表現を駆使した活躍で知られる寺山修司は、1960年代から70年代にかけて若者のカリスマ的存在でした。

47年の短い生涯を全力で駆け抜けた彼の人生には、シニアにとっても手本とすべき点が多いものです。

1.職業「寺山修司」を自称した生き方

昭和10年に青森県で生まれた寺山修司は、青森高等学校在学中にはすでに俳句改革運動に取り組むほど言語感覚に優れた若者でした。

早稲田大学に入学してからは短歌の分野で活躍し、腎臓を患って大学を中退した後はラジオドラマや演劇の脚本・戯曲を手がけるようになります。

以後の寺山修司は演劇実験室「天井桟敷」の結成と数々の革新的な公演を経て映画の分野にも進出し、「書を捨てよ、町へ出よう」など数々の著作も発表してきました。

1970年前後の新宿には横尾忠則・美輪明宏・三島由紀夫・コシノジュンコ・谷川俊太郎・篠山紀信ら各分野の天才たちが集い、文化の一大発信地としての活気に満ちていたと伝えられています。

一流の文化人たちが互いに刺激し合いながら新しいカルチャーを次々と生んでいった新宿の熱い空気の中で、寺山修司は常に先頭を走り続けていた存在です。

「僕の職業は寺山修司です」というほど既成の枠に収まりきらない活動を手がけた彼の生き方に、多くの若者が熱狂したのでした。

2.アングラ演劇や前衛的映画で大反響

寺山修司の活動は詩作から競馬評論に至るまで多岐にわたりますが、中でも最も熱を入れていたのは演劇と映画の分野です。

もともとは詩人として文学活動をスタートさせ、俳句や短歌の分野で一名を築いた寺山修司ですが、彼にとって詩集や歌集は言葉を伝える手段として不足を覚える器でした。

独特の言語感覚の持ち主だった修司の活動は、大学を中退して以降に生身の人間を介した肉声の表現へと向かいます。

1967年に「天井桟敷」を旗揚げした修司は、「青森県のせむし男」を皮切りに「毛皮のマリー」や30時間の市街劇「ノック」など数々の演劇実験を繰り広げていったのです。

唐十郎の状況劇場とともにアングラ劇団ブームの主役となった寺山修司は、1971年の「書を捨てよ町へ出よう」を手始めに映画界にも進出しました。

それらの演劇や映画を通じて表現された前衛的かつ幻想的な独自の世界観は、見世物小屋の復権を目指した寺山修司らしい美意識の副産物とも言えます。

3.詩歌や評論など文芸分野でも活躍

劇場に客が入りきれず深夜の新宿の街に大行列が出現したと言われるほど評判を呼んだ天井桟敷の伝説的旗揚げ公演の模様は、1967年当時の映像が残されていないため現在では見ることができません。

天井桟敷の公演そのものが映像ソフトの形としては現在入手困難な状況ですが、寺山修司が書いた数々の戯曲や映画・ドラマの脚本は書籍の形で読むことができます。

寺山修司と言えば演劇や映画などの映像的表現が伝説として語り継がれている一方で、短歌や詩など文学の分野でも才能を発揮してきました。

中でも短歌の分野に革新をもたらしたと言われる彼の前衛短歌には、「昭和の啄木」と呼ばれた若き寺山修司の叫びが凝縮されています。

天井桟敷を旗揚げした1967年に出版された評論集「書を捨てよ、町へ出よう」は、後に修司自身の戯曲・脚本で演劇化・映画化されました。

平均的で退屈な人生を捨てて町へ飛び出すことの魅力を伝える一冊として、この著作は寺山修司ファンのバイブルとなっています。

4.寺山修司に大きな影響を与えた2人の女性

父が戦死した後は母と二人で貧しい少年時代を送ってきた寺山修司にとって、一人息子を盲愛した母の存在は逃れられない呪縛でもありました。

修司は上京後に知り合った女優の九條今日子と結婚しますが、母はこの結婚を認めず結婚式にも出席しなかったと言われています。

九條今日子との結婚生活は7年で破綻して離婚に至り、以後の修司は47歳の若さで亡くなるまで再婚することがありませんでした。

夫婦関係を解消した後も九條今日子は仕事上のパートナーとして寺山修司を支え続け、天井桟敷の裏方として制作面を担当します。

修司没後の九條今日子は著作権の管理や寺山修司記念館の名誉館長など、彼の残した功績を後世の人々に伝える役割を果たしてきました。

一方で寺山修司は演劇や映画・短歌などあらゆる表現を駆使して虚構も交えながら母を描き続けています。

この2人は修司の人生に大きな影響を与えた女性として、数々の独創的作品群を生み出す原動力となったのです。

5.シニアも手本としたい寺山修司の生き方

若者の間でカリスマ的存在となった寺山修司は40歳を過ぎて以降も精力的に活動を続けていましたが、47歳という短い生涯を終えたその最期も壮絶でした。

晩年に至って肝硬変を患い、腹膜炎から敗血症に至った末の1983年5月に早すぎる死を迎えたのです。

寺山修司は死の直前まで仕事を続け、遺作となった映画「さらば箱舟」の制作にも体調不良で撮影日程を延長してまでして取り組んでいたと伝えられています。

文字通り生涯現役を貫いた寺山修司は死を覚悟しながらも、「私の墓は、私の言葉であれば、充分」という言葉を残しました。

そこに凝縮されているのは、変幻自在の多彩な活動を展開しながら「書を捨てよ、町へ出よう」と人々に呼びかけ、47年の生涯を猛スピードで駆け抜けた修司ならではの人生哲学です。

我を忘れて打ち込める趣味を持つシニアはもちろん、定年後にこれと言った趣味を見つけられずにいるシニアにとっても寺山修司の生き方は手本となります。

寺山修司の人生を手本として生きる

かつて寺山修司に心酔した多くの若者たちも、現在ではシニアと呼ばれる年代に差しかかっています。

没後30年以上を経た今なお伝説として語り継がれる寺山修司の生涯は、平凡なサラリーマンにとってなかなか真似できない生活の連続でした。

第2の人生の入口に立つシニアにとっては、彼の人生に学ぶべき点も豊富にあるものです。