「パブロ・ピカソ」愛人たちとの生活を刺激に生涯現役!うらやましすぎる!!

最終更新日:2017年12月14日

20世紀の美術界で最大の巨匠として知られるパブロ・ピカソは、91年という長い生涯に数多くの作品を制作してきました。

美術の歴史を大きく変えたピカソの革新的な芸術は、彼の生き方と密接な関わりを持っています。

1.膨大な数の作品を日記のように制作

1881年にスペインに生まれたピカソは若い頃にパリに移り住んで以降、政情不安定だったスペインから離れて生涯の大半をフランスで過ごしました。

ピカソが長い生涯の中で残した作品は絵画・版画・彫刻・陶芸など合計10万点以上にも及び、最も多作な美術家としてギネスブックにも掲載されたほどです。

一般的な美術家は1点1点の作品に時間をかけて入念に取り組むものですが、ピカソの場合はまるで日記を書くように作品を多作したと言われています。

過去の作品には固執せず絶えず作風を変化させ続け、高齢になっても旺盛な創作欲を維持していたためにこれだけ膨大な数の作品を残すことができたのです。

彼の生涯は作風の変遷に従って「青の時代」「キュビスムの時代」「新古典主義の時代」「シュルレアリスムの時代」など、いくつかの時代に分けられます。

ピカソは生涯にわたって数多くの女性たちを愛したことでも知られており、彼女たちは絵のモデルとしてもピカソに大きなインスピレーションを与えてきました。

2.ピカソにインスピレーションを与えた女性たち

ピカソが20歳前後の数年間に描いた絵は、親友カサヘマスの自殺による衝撃で陰鬱な青い色彩に支配されているのが特徴です。

そうした「青の時代」から「ばら色の時代」の明るい色彩へと脱する過程では、恋人のフェルナンド・オリヴィエが大きな役割を果たしました。

《アビニヨンの娘たち》に始まるキュビスムの時代にはマルセル・アンベールを恋人としますが、結核を患った彼女は若くして世を去ります。

悲嘆に暮れていた30代半ばのピカソを救ったのは、貴族出身のバレリーナだったオルガでした。

最初の妻となったオルガとの間に長男のパウロも誕生し、新古典主義の時代を代表する《母と子》などの名作を生みます。

妻オルガとの不和が高まった50歳前後の時期にはピカソの作風も激変し、彼女の姿はシュルレアリスムの技法によって大きく歪められました。

48歳のときに描いた《赤い肘掛椅子の女》などに見られるオルガの顔は、まるで怪物のようにデフォルメされているのです。

3.名作を生んだ愛人たちとの生活

オルガと不和に陥った46歳のピカソは、街で見かけたマリー・テレーズという17歳の少女に一目惚れして彼女を愛人とします。

マリー・テレーズは美しいブロンドの髪とふくよかな体を持つ女性で、《黄色い髪の女性》《夢》などの作品に描かれた彼女は妻オルガと対照的な姿でした。

マリーとの間には娘も生まれましたが、ピカソは50代半ばになって女性写真家のドラ・マールを新たな愛人としました。

この時期のピカソは有名な大作《ゲルニカ》に加え、よく泣く女性だったというドラ・マールをモデルとして代表作の1つ《泣く女》も描いています。

ピカソが60歳を過ぎてから愛した女性は、フランソワーズ・ジローという21歳の画学生でした。

フランソワーズとの愛人生活は10年に及んで2人の子も生まれましたが、ピカソ72歳のときに彼女は子供たちを連れて他の男性と結婚してしまいます。

フランソワーズ・ジローはピカソを捨てたただ1人の女性として知られているのです。

4.80歳で2人目の妻と結婚

フランソワーズが去った後には正妻のオルガもピカソが74歳のときに亡くなりましたが、彼はこのときすでにジャクリーヌ・ロックという女性を新たな愛人としていました。

ジャクリーヌを2人目の妻としたのはピカソが80歳のときで、彼女はピカソの晩年を共に過ごした最後の女性となります。

作風を目まぐるしく変化させる一方で常に芸術家仲間たちと交流していたピカソも、ジャクリーヌを妻に迎えた最晩年の日々は創作に専念する日々を送りました。

訪問客もめっきり減った南仏ムージャンの別荘で妻のジャクリーヌに支えられながら、ピカソは高齢になっても絵画や銅版画・陶芸などの作品の制作を精力的に続けたのです。

晩年には過去の作風への回帰や混合に加え、ベラスケスや・ゴヤ・マネといった巨匠の名作にピカソ流の大胆なアレンジを加えた絵画の連作にも取り組んでいます。

1973年の4月8日、20世紀美術に革新をもたらした巨匠ピカソは、急性肺気水腫で91年の生涯を閉じました。

5.「子供のような絵」が理想

死の直前までアトリエにこもって精力的に創作を続けていたピカソが晩年に描いた作品には、子供の落書きにも似た表現が少なくありません。

「この年になって、ようやく子供のような絵が描けるようになった」と伝えられているピカソの言葉は、「誰でも子供のときは芸術家である」という彼の名言にも呼応します。

人間は年を取ると子供に返るとも言われていますが、ピカソが最晩年に到達した境地こそは芸術家にとって理想の姿だったのです。

愛した女性たちとの確執やゲルニカの悲劇を作品の題材とした時代を経て、純粋に創作を楽しめる境地に達したピカソ晩年の作品には表現の喜びがあふれています。

そうしたピカソの人生哲学から、今の時代に生きるシニアが学ぶべき人生の指針を読み取ることも十分に可能です。

美術に限らずどの分野にも共通することですが、どのような趣味でも子供のように純粋に楽しめる境地を得ることで、シニアライフも充実した日々になります。

芸術作品としてのパブロ・ピカソの人生

人生そのものが1つの巨大な芸術作品だったと称しても過言でないピカソの生涯には、人生をよりよく生きるためのヒントが隠されています。

驚異的な数の作品を残したピカソは、女性たちを始めとするあらゆる刺激を芸術の肥やしにしてきました。

特にピカソ晩年の姿を手本とすることで、シニアの生き方も大きく変わってくるものです。