前衛文学の旗手として名を馳せた安部公房は、かつてノーベル文学賞に最も近い日本人作家と言われていました。
そんな安部公房が残した長編小説「砂の女」は20ヶ国語以上の言語に翻訳され、世界の人々から高く評価されてきた名作です。
1.国際的評価も高い20世紀文学の傑作
安部公房は「壁 – S・カルマ氏の犯罪」で昭和26年上半期の芥川賞を受賞して以来、文壇の最前線で活躍してきました。
前衛的で難解かつ不条理な作風を特徴とする安部公房ですが、早くからSF小説の技法を取り入れるなど純文学の枠に収まりきらない一面も持っています。
現実には有り得ないような設定に主人公を置き、極限的な状況で人間存在の本質を描いた作品が多く残されています。
安部公房の書いたそれらの作品群でも最高傑作と言われているのが、昭和37年に刊行された「砂の女」です。
この作品はフランスで最優秀外国語文学賞を受賞したほど国際的評価が高く、20世紀文学の最高峰とまで称する声もあります。
川端康成以降の日本人作家の中でも、安部公房はノーベル文学賞に最も近い作家と言われた時期もありました。
1993年に急逝したため受賞はかないませんでしたが、もう少し長生きしてノーベル文学賞を受賞していれば、最大の功績として「砂の女」が挙げられていたのは間違いありません。
2.砂に呪われた家での奇妙な生活
世界の20世紀文学でも屈指の傑作と称される「砂の女」は、一風変わった設定の下で物語が展開します。
主人公は教師を職業とする31歳の男で、人と変わってところと言えば昆虫採集マニアだという点です。
主人公は砂地に住む昆虫を採集する目的で砂浜を訪れ、日が暮れてしまったことから地元集落の家に泊めてもらいます。
その家は砂丘に囲まれた穴の底にあって出入りするには縄梯子を必要とするのですが、翌朝になるとその縄梯子が村人によって外され、家に閉じ込められしまいます。
主人公は何度も脱出を試みながらことごとく失敗し、家に1人で住む女との奇妙な同居生活が続くことになります。
家には絶えず砂が入り込んでくるため、毎日毎日大量の砂を家の外に運び出す作業が欠かせません。
その労働力の担い手として主人公は、囚われの身となったも同然になります。
しかし脱出に失敗するうちには次第にこの奇妙な生活にも馴染み、脱出する意欲をなくしていきます。
当初は反発を覚えていた女に対しても、主人公は愛情に似た感情を抱くようになります。
3.不条理な設定とサスペンス
この小説が書かれた昭和30年代頃の日本には、昔ながらの伝統的な生活を送る農村や漁村も地方に多く残されていました。
「砂の女」で描かれている世界は、そんな村落共同体に根づいた閉鎖性の象徴とも解釈できないことはありません。
しかしながら実際にこうした異様な生活を送る集落が存在したとも考えにくく、主人公が迷い込んだ家は作者の想像力の産物と見なすのが妥当です。
描きようによっては荒唐無稽な物語になりかねない不条理な設定であっても、安部公房は巧みな比喩を駆使しながらリアリティ豊かに砂の家を描写しています。
気がつけば読者は作者の術中にはまり、心理的に追い詰められた主人公が何度も家からの脱出を試みる展開にハラハラしながら読み進めることになります。
不条理なはずの設定をいつの間にか忘れ、現実に起こりつつある出来事としてサスペンスを味わえる点も「砂の女」の見逃せない魅力です。
4.高度にシステム化された現代社会を象徴する寓話
「砂の女」が日本人の間だけでなく世界の人々に広く受け入れられたのは、物語の持つ普遍性が認められた証拠です。
乾いていて絶えず流動する性質を持つ砂は、高度にシステム化された現代社会の象徴とも言えます。
不条理な状況から必死に脱出しようとする「砂の女」の主人公に、自分自身の姿を重ね合わせて読んだ読者も少なくないはずです。
そうした意味で「砂の女」は現代社会を暗示する寓話的な物語とも受け取られ、20世紀を代表する小説として国際的に高く評価されてきました。
21世紀の現在は当時と比べて社会状況がよりいっそう大きく変化しましたが、その文学的価値は色褪せていません。
理不尽な状況に流されていく主人公の弱さや、作中で村人たちが掲げる「郷土愛」にも、現代日本の状況を重ね合わせるような読み方も可能です。
国や民族が違っても広く受け入れられる物語には、時代を超えて読み継がれるだけの普遍性も秘められているのです。
5.人生経験が読書に生かされる
純文学作品とは言え「砂の女」の物語構造そのものは意外にシンプルなので、小説をある程度読み慣れた人であればスムーズに読めるものです。
20世紀文学の古典という評価が定着している作品だけに、現在でも一般の書店で文庫本が容易に入手できます。
文学好きを自認する人でまだ「砂の女」を読んでいないとしたら、死ぬまでに一度は読んでおきたい名作です。
若い頃に一度読んだことがあるという中高年の人でも、年齢を積み重ねてから再読すれば新たな発見が得られるものです。
10代や20代の頃に読みながら十分に意味を理解できなかった作品が、人生の後半を迎えて再度読み返してみてようやく腑に落ちたという例も少なくありません。
特に「砂の女」はテーマを明確な形で表現せず、暗喩に近い形で象徴的に描いた作品です。
ある程度の人生経験を積んだ人の方が味わいも深くなり、一見すると不可解に思えるような結末にも納得がいくようになります。
映画をみたことがある人も、小説の味わいを楽しもう
「砂の女」は昭和39年に勅使河原宏監督で映画化され、カンヌ国際映画祭審査員特別賞の評価を得ています。
原作を読まずに映画でみてあらすじを知っているという中高年の人も多いでしょうが、原作には小説ならではの味わいがあります。
「砂の女」を読めば作者の書いた他の作品も読みたくなるほど、安部公房ならではの独特の世界に浸れるのです。