明治以降に数多く書かれた日本の小説で、最も広く読まれてきた国民的作品は夏目漱石の「坊っちゃん」です。
明治時代の作品でありながら、個性的な登場人物たちが活躍する「坊っちゃん」は時代を越えて長く愛されてきました。
1.何度も映画化・ドラマ化された名作小説
作者の夏目漱石は日本の文学史を代表する文豪として有名ですが、彼が「坊っちゃん」を書いたのは作家デビューして間もない明治39年のことです。
それから100年以上が経った今でもこの作品は新刊書店の文庫本コーナーで売られており、以前は中学生が読書感想文に選ぶ本として最もポピュラーな存在でした。
「坊っちゃん」の人気を示すデータの1つとして、これまで何度も何度も繰り返し映画化やドラマ化されてきた事実が挙げられます。
映画では1935年を皮切りに、中村雅俊が坊っちゃんを演じた1977年版まで原作として5回取り上げられてきました。
テレビドラマでは10回以上も映像化された他、テレビアニメや舞台・ミュージカルでもたびたび放映・上演されています。
夏目漱石の原作を読んだことがないという人でも、こうした映像や舞台を見て「坊っちゃん」のあらすじを知っている人は少なくありません。
「坊っちゃん」の物語はこの100年余りの間で日本人の心に深く浸透してきたのです。
2.江戸っ子青年教師の痛快な物語
「坊っちゃん」の主人公は「おれ」の一人称で語り手を務める青年、東京で生まれ育った生粋の江戸っ子です。
物理学校を卒業後に四国・松山の中学校へ数学教師として赴任し、数々の騒動を体験した末に学校を辞めて東京に帰るまでが語られています。
学校を卒業したばかりの若い教師が生徒たちのからかいの対象とされる例は珍しくありませんが、「坊っちゃん」の主人公もその洗礼を受けることになります。
天麩羅事件・団子事件を経て温泉での遊泳の一件に続き、布団の中に大量のバッタを入れられた宿直のエピソードも「坊っちゃん」の見逃せない読みどころの1つです。
作者の夏目漱石も若い頃に旧制松山中学校で1年間教師として赴任していたことから、当時の経験がこうしたエピソードの下敷きになった可能性もあります。
夏目漱石の人生や当時の時代背景などを知った上で「坊っちゃん」を読めば、痛快で滑稽な物語にも現実味が増して読書の楽しみが広がります。
3.魅力的な登場人物たち
江戸っ子を自認する主人公の一人称語りで筋が展開する「坊っちゃん」は、個性的な登場人物の魅力によっても大衆的な人気を博してきました。
「親譲りの無鉄砲」で意地っ張りの主人公は江戸っ子の典型とも見られますが、その一方では神経質でどこか屈託のある性格の持ち主です。
単なる猪突猛進型の人物ではない主人公の魅力に劣らず、彼を取り巻く人物たにちも個性派が揃っています。
主人公は職員室を仔細に観察して教師たちに1人1人あだ名をつけ、容赦ない表現で彼らの本質を斬りまくります。
インテリでキザな人物として描かれる教頭の赤シャツとその腰巾着の野だいこは、主人公が最も嫌いなタイプの人物です。
この他にも事なかれ主義の校長・狸や正義感の強い数学教師の山嵐、青白い顔をしたお人好しのうらなり君といった面々が登場します。
最近の小説ではキャラクター造形が重要視されるようになりました。
100年以上も前に書かれながら同様の特徴を備えている点で「坊っちゃん」は現代の読者にも親しみやすい小説です。
4.親しみやすい語りの文体
以上のような痛快なストーリーと、現代の小説にも通じる人物造形ばかりが「坊っちゃん」の魅力ではありません。
この作品が幅広い年代の読者に長く親しまれてきたのも、テンポの良い躍動的な文体があればこその話です。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」という冒頭から始まる「坊っちゃん」の文体は、1文1文が短く区切られていて読みやすく工夫されています。
明治時代の小説と言えば現代の読者にとって難解な文章を想像しがちですが、「坊っちゃん」はかつて読書感想文の定番だったほど読みやすい文体です。
作中には当時の生活様式を示す古い言葉も多く登場するとは言え、シニア世代の人ならそれほど抵抗なしに読み進められます。
この文体は明治以降に試みられてきた言文一致体の1つの完成形とも見なされ、話し言葉の語り口を文章にそのまま書き写したような勢いで一気に読ませます。
文庫本にして150ページ弱というそれほど長くない分量に、語りの面白さが凝縮されているのです。
5.深みのあるストーリーも魅力
時代を越えて坊っちゃんが多くの読者に愛されてきた理由の1つとして、心に響く物語の背景が挙げられます。
主人公の人物像としては気風の良い江戸っ子を想像しがちですが、両親にあまり愛されてこなかったという屈託と孤独感も抱えています。
無鉄砲な性格はそうした孤独感の裏返しとも受け取れ、神経質な一面が孤独感によりいっそう影を落としています。
そんな主人公に対してただ一人無償の愛を注いでくれた下女の清だけが、彼にとっては唯一の心の拠りどころでした。
離れて暮らす清に対する気持ちを主人公は語りの中でストレートに表現するのではなく、さまざまな言い方で仄めかすにとどめています。
物語の主役を演じるのは主人公と同僚教師たちですが、清に対する主人公の思いは最後までぶれることがありません。
表のストーリーに登場しない清の存在が「坊っちゃん」に深みと奥行きを与えており、哀切感漂う結末にも心を打たれるのです。
電子書籍でも「坊っちゃん」を読んでみよう
日本の文学史上に残る名作小説として、「坊っちゃん」は中学校の国語教科書にもたびたび取り上げられてきました。
全文をまだ通して読んだことがないという人は、現在でも容易に入手できる文庫本を手に取ってみるといいでしょう。
インターネットに親しんでいる人の間では、無料で読める電子書籍版の「坊っちゃん」も人気です。