日本の近代文学を代表する文豪たちの中でも、太宰治はその死後も若い読者を中心に長く人気を集めてきました。
特に「人間失格」は人間の弱さをテーマとした内容だけに、人生の後半を迎えた人の心にも強く響く名作小説です。
1.現代の読者にも人気
「人間失格」は昭和23年という戦後間もない時期に書かれた小説でありながら、今もなお多くの人に愛読されています。
最近では漫画家のイラストを表紙として発売された新装版の文庫本が大ヒットしたことでも話題となりました。
「人間失格」が現代の読者にも受け入れられたのは、その内容が今も古びていない証拠です。
太宰治の作品は長編小説「斜陽」から「走れメロス」「女生徒」などの短編に至るまで、文学青年や文学少女たちのバイブルとして親しまれてきました。
そんな太宰作品を語る上でどうしても避けて通れないのが、死の直前に書かれたこの「人間失格」です。
作者自身の内面を色濃く投影しているものと推定されるそのセンセーショナルな内容は、完成直後に作者が自殺を遂げたことでよりいっそう重みを持つことになります。
極めて屈折した告白体として書かれたこの作品から太宰治の死の謎を解こうとする試みが、多くの文芸評論家やファンたちの手で繰り広げられてきました。
2.三分構成で語られる事実上の遺書
主人公・大庭葉蔵の一人称による手記を中心として、その前後に短い「はしがき」と「あとがき」を置いた三分構成が「人間失格」の全体像です。
小説家の「私」を語り手とする「はしがき」と「あとがき」は、この全体像をフィクションとして構築するための仕掛けの役割を果たしています。
「はしがき」に登場する三葉の写真は葉蔵の異なる年代の姿をそれぞれ写したものですが、3つに分けられる葉蔵の手記はそれぞれの写真に対応しています。
第一の手記は彼の少年時代を、第二の手記は学生時代を、第三の手記は漫画家になった自分自身を葉蔵が振り返る形で書かれているのです。
手記の部分には多分に脚色が加わっているものと推定されますが、度重なる心中・自殺未遂や薬物中毒の経緯などは作者自身の実体験と重なる部分も少なくありません。
書かれた直後に作者が愛人の山崎富栄とともに入水自殺を遂げた事実を考えると、「人間失格」は太宰治の精神的な自伝小説であると同時に、事実上の遺書とも見なされるのです。
3.主人公と作者の関係
太宰治は「人間失格」の主人公に設定した大庭葉蔵と同じ名前を持つ人物を、初期の短編「道化の華」でも登場させています。
女性と心中を図りながら自分だけが生き残ったという体験などは両作品に共通しており、太宰治がこの人物に自分自身を投影させる意図を初期の頃から抱いていた面が窺えます。
2つの作品に共通するもう1つのポイントは、「道化」というキーワードです。
本当の自分を偽りながら周囲に対して道化の役回りを演じてきたという主人公の性格は、太宰治自身の影が色濃く反映されていると考えられます。
人生に対する耐え難い苦しみを感じていながらそれをストレートに表現できず、表面は道化役者のように振る舞いながら人気者を演じている姿に一種の悲哀を見ることも可能です。
そうした内面は現代に生きる読者にも一脈通じる部分が少なくないだけに、読書離れが進んでいると言われる若者たちに「人間失格」が再発見された意義は大きいのです。
4.人間の弱さと向き合う言葉
若い世代からの圧倒的な支持を得てきた「人間失格」は、人生の折り返し点を過ぎた人にとっても読まれる価値を持っています。
太宰治の作品に熱中する青年期を称して「はしかのようなもの」などとよく言われますが、「人間失格」を書いた頃の太宰治は40歳を目前に控えた年齢でした。
自殺未遂あり小説家としての成功あり、波乱の半生を経験してきた太宰治が死の直前に残したこの作品には、中高年の人の心にも響く言葉の数々が織り込まれています。
自分の人生は今のままでいいのだろうかという問いは、人生の折り返し点を過ぎる頃に抱きがちなものです。
「人間失格」に書かれた大庭葉蔵の手記は、語り手自身の人間的な弱さをさらけ出したような告白に満ちています。
「人間失格」を読んで自分自身の弱さと向き合う勇気を持てるようになったという人は、決して若い世代の読者ばかりではありません。
ある程度の人生経験を積んできた人ほど、「人間失格」に書かれた人間洞察の言葉も重みをもって受け止められるものです。
5.色褪せない文学の力
自殺未遂やアルコール中毒と薬物中毒、脳病院への収容など、「人間失格」には気が重くなるような出来事が畳みかけるように次々と登場します。
そんなストーリーの重さにも関わらず「人間失格」が多くの読者に愛され、長きにわたって人気を博してきたのも、太宰治ならではの言葉の力です。
自虐的なまでに自分自身をモデルとした主人公を戯画化し、独特の軽妙な語り口で読み手を楽しませる天賦の才を太宰治はこの作品で遺憾なく発揮しています。
そのようにして道化を演じる一方で、不意に人生の真実を鋭く突くような言葉も随所に挟まれています。
太宰治によって磨きに磨きをかけられた変幻自在の語りがオブラートのように包み込んだその中身は、誰もが共通して抱いている人間の弱さにほかなりません。
時代は移り変わってもそうした人間の本質に大きな変化が訪れていない以上は、読む者の心に強く訴えかける「人間失格」の力は今の時代も色褪せていないのです。
太宰治の代表作に触れてみよう
優れた芸術作品は作者の死後も長く生き続けるものですが、小説の分野も例外ではありません。
日本の文学史上でそうした作品を挙げるとすれば、「人間失格」も当然その有力候補の1つです。
小説を通じて人間の弱さと徹底して向き合ってきた太宰治の生きた証として、「人間失格」は死ぬまでに一度は読んでおきたい名作です。