定年後に読みたい!『こころ 』夏目 漱石(著)は人間の心を克明に追求した魂の文学

最終更新日:2017年9月25日

日本の文学史上で一番の傑作選ぶ場合に、ある程度以上の年代では夏目漱石の「こころ」を挙げる人が多いものです。

実際に「こころ」は日本の小説で最も売れた作品と言われており、累計売上部数は太宰治の「人間失格」を上回ります。

1.大衆にも広く親しまれてきた名作

文豪として名高い夏目漱石は、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「三四郎」など数々のベストセラー小説を生み出してきました。

そんな漱石作品の中でも最も多くの人に読まれてきた作品が、大正3年に書かれた長編小説の「こころ」です。

夏目漱石と言えば高尚で取っつきにくいイメージを抱く人も少なくありませんが、この「こころ」は他の漱石作品と比べても読みやすい文体で書かれています。

そのせいもあって「こころ」は大衆的な人気を博し、映画やドラマの原作としてもたびたび取り上げられてきました。

この作品は全体を「上」「中」「下」に分けた三部構成を取っていますが、実質的には前半と後半に大きく分けられます。

「先生と私」と題した「上」や「両親と私」と題する「中」に比べ、「先生と遺書」の題が掲げられた「下」の分量が極端に長いのです。

「上」と「中」では主人公が「私」の一人称で語り手を務めているのに対して、「下」では先生が手紙を通して自身の半生を告白する手記のスタイルを取っています。

2.私と先生との交流

「先生と私」では主人公の私が鎌倉の海水浴場で先生と出会い、交流を深めるまでが描かれています。

先生と言ってもどこかの大学や学校に勤務しているわけでもなく、大学を出て学問もありながら「何もしないで遊んでいる」人間です。

それでも主人公はその人の人柄を慕いながら「先生」と呼んで自宅をたびたび訪問し、奥さんとも親しくなります。

交流を深めるうちに主人公は先生の過去に何か重大な秘密が隠されていることに気づきますが、先生はその秘密について明かしてくれません。

やがて大学を卒業した主人公は父の病状が悪化したという知らせを受け、就職先が決まらないまま帰郷することになります。

「両親と私」では主人公が実家で過ごす日々が描かれ、先生に何度も手紙を書きます。

父の容態も危うくなっていた中で先生から分厚い手紙が届きますが、その手紙は過去の秘密について書かれていると同時に、自殺を仄めかす内容でした。

明日をも知れぬ父を残し、主人公は東京行きの汽車に飛び乗ります。

3.先生からの長い手紙

「先生と遺書」の部分は、主人公が汽車の車内で読んだものと思われる先生の手紙によって全文が構成されています。

それまでの調子とは打って変わって語り手が先生の肉声と入れ替わり、主人公に対して秘密にされていた先生の過去が明かされていくのです。

手紙に書かれていた内容は先生と現在の奥さんが結婚するに至るまでの経緯が中心ですが、その過程で先生は友人のKを自殺に追い込むような結果を招いてしまいます。

そんな重い過去を抱えながら先生はKの墓参を毎月欠かさず続けてきましたが、明治天皇の崩御を受けた乃木大将の殉死をきっかけとして自殺を決意しました。

先生の遺書を読んだ主人公のその後については言及されていませんが、この手紙をもって筆を置いた点にも「こころ」が名作として愛読されてきた秘密が隠されています。

悲劇的な結果を暗示する省略の手法を選択することで、「こころ」は日本人の心に長く生き続けてきたのです。

4.読者を引き込む謎の力

以上のようなストーリーの流れを見れば、純文学小説の古典とも目される「こころ」が意外にも推理小説的な技法を使って書かれている点が窺えます。

読み始めた読者をがっちりと掴んだまま離さず、結末まで一気に引っ張っていったのは謎の持つ力です。

小説の中で提示される謎は一般的な推理小説の題材となるような事件ばかりに限らず、謎めいた魅力を持つ人物の過去であっても構いません。

先生の過去にまつわる秘密は読者を引きつけるのに十分な強度を持ち、読み手は主人公と一緒になって秘密の真相を知りたいと渇望するようになります。

「先生と遺書」で明かされた秘密の真相は人間の持つ心の不可解な性質と密接な関わりがあって、推理小説で明かされる一般的な犯行動機と比べても格段の重みがあります。

「こころ」を読んだ人は人間の心に潜む魔物ようなものの存在に戦慄しながらも、自ら死を選ぶほどに心の問題を直視した先生の告白に強く胸を打たれるのです。

5.人間の心を克明に追求した魂の文学

「こころ」がこれだけ多くの読者に読まれて名作中の名作という評価を得たのも、人間の心という永遠のテーマを作者が誰よりも深く追求したからにほかなりません。

一歩間違えれば野暮な表現に陥ってしまいかねないところを、夏目漱石は頼もしいまでの筆さばきで読者を力強く引っ張ってくれます。

「先生と遺書」の部分は当初の予定よりもはるかに多い枚数を費やした経緯もありますが、それだけ漱石が魂をこめてこの作品を書いた証拠です。

予定調和的な作品には到底期待できないほどに熱を帯びた圧巻の文章は、虚構の人物だったはずの先生が作者に乗り移ることで初めて実現可能となります。

「こころ」の中でもこの「先生と遺書」の部分は、日本の文学史上に残る名文として不朽の価値を持っています。

現在では無料の電子書籍などの形で気軽に漱石作品を読めるようになりましたが、こうした名作は印刷された本で読むとよりいっそう深く味わえるものです。

青春期に読んだ「こころ」を再読してみよう

100年以上の長きにわたって日本人に愛されてきた「こころ」は、高校生の読書感想文でも定番中の定番でした。

一方では同じテーマの小説でも青春期に読むのと、中年以降に読むのとでは受け止め方が違ってくる場合が少なくありません。

若い頃に読む機会がなかった人でも、今から「こころ」を読むのに決して遅すぎることはないのです。