太平洋戦争後に行われた極東国際軍事裁判でA級戦犯として裁かれ、文官として唯一絞首刑となった元首相の広田弘毅は、悲劇の政治家とも言われてきました。
城山三郎の「落日燃ゆ」は、そんな彼の生涯を描いた伝記小説です。
1.広田弘毅の生涯を描いた感動作
広田弘毅は昭和初期の斎藤内閣と岡田内閣で外務大臣を務めた後、二・二六事件を受けて岡田内閣が総辞職したのを受けて第32代内閣総理大臣に就任しました。
首相辞任後も広田は近衛内閣で外相に再就任し、日中戦争から太平洋戦争へと至る時代の流れに翻弄されてきたのです。
戦後は広田も連合国側の極東国際軍事裁判でA級戦犯として戦争責任を問われる立場となり、死刑判決を下されました。
作家の城山三郎は波乱に富んだ広田弘毅の生涯を題材として、処刑に至る彼の姿を小説の中で克明に描いたのです。
裁判に際して最後まで毅然とした態度を貫き通した広田の姿が感動を呼び、「落日燃ゆ」は毎日出版文化賞と吉川英治文学賞を受賞しました。
激動の昭和史を背景としたこの重厚な人間ドラマは、1974年の出版から40年以上経った今も圧倒的な迫力で読者を魅了してくれます。
2.戦争責任を背負った男の悲劇
「落日燃ゆ」は全11章から構成されており、作者は「はじめに」と題する序章で昭和23年12月24日の日付から筆を起こしました。
広田の死後にまつわるこの逸話に続く一章では、彼の少年時代から外交官として活躍を始めた時期までが語られています。
日本が戦争への流れに引きずり込まれていく昭和初期の世相を背景に、以下の章で広田の政治活動が克明に描かれていきます。
二・二六事件のクーデター以降は軍部の力が強化され、首相に就任した広田でさえ軍部の独走を抑えるのは困難な時代となっていました。
外交政策で列強との関係修復を目指しながらも軍部に屈してその暴走を黙認する結果となり、日中戦争と太平洋戦争を招いた張本人として広田は戦後に裁かれる身となります。
九章で終戦を迎えた広田は戦犯の指名を受けて巣鴨拘置所に収容され、杜撰な軍事法廷を経て死刑判決を下されるのです。
すべての戦争責任は自分にあると認めて敢然と死を受け入れた広田の悲劇を、作者は抑制された筆致で描き切りました。
3.東京裁判での広田弘毅
この作品で最大の読みどころは、裁判に臨む広田の終始一貫とした潔い態度を描いた部分にあります。
広田弘毅の戦争責任をめぐっては、これまでにも多様な意見があったのは事実です。
太平洋戦争当時の広田はすでに外相を更迭されており、政権中枢の一員として戦争に直接関与したわけではありませんが、戦争に至る流れはそれ以前に形作られていました。
日中戦争と太平洋戦争を回避すべき積極的な行動を取らなかった点で、広田の戦争責任は免れないとする意見は現在でも少なくありません。
だからこそ広田本人も東京裁判では一切の弁解をせず、絞首刑を宣告する判決を潔く受け入れたとも言えます。
淡々としたノンフィクション的な筆致でありながら、そんな広田の姿を描く作者の視線はむしろ温かです。
広田の生涯を少年時代から描き起こし、その人柄を物語るエピソードを作中にちりばめた上でこの壮絶な最期を語り終えた手法に「落日燃ゆ」の真価が隠されています。
4.膨大な資料を駆使して執筆
作者の城山三郎はこうした伝記・歴史小説の分野以上に、経済小説の分野を開拓した第一人者として広く知られています。
大学在籍中に理論経済学を学んだことが経済小説を生むきっかけとなり、文学界新人賞を受賞したデビュー作「輸入」も商社マンの世界が小説の舞台でした。
銀行経営の裏面にスポットを当てた短編小説「総会屋錦城」で直木賞を受賞した後も、城山三郎は数々の経済小説を世に送り出してます。
伝記小説も城山三郎が得意としたジャンルの1つで、渋沢栄一の生涯を描いた「雄気堂々」や田中正造を主人公とした「辛酸」は「落日燃ゆ」と並ぶ代表作です。
いずれのジャンルでも豊富な資料を読破して綿密な取材を経た後に作品を書くのが城山流の創作法でした。
「落日燃ゆ」では昭和史を扱った文献や広田弘毅に関する膨大な資料が巻末に掲載されており、文献の参考個所がページ単位で細かく記されています。
そうした地道な創作姿勢に支えられた強固なリアリティが、この作品の迫力を生み出しています。
5.組織と個人の関係を考えるきっかけに
「落日燃ゆ」に描かれているのは、広田弘毅という1人の政治家を襲った悲劇の運命ばかりではありません。
彼を取り巻いていた政府や軍部の組織が、広田の意思決定に重要な役割を果たしているのは明らかです。
組織の中で生きざるを得ない個人の苦悩、組織と個人の関係といったテーマが昭和史を背景として克明に追求されていまるのです。
同じ問題に現在も多くの人が直面している以上は、一見平和に見える平成の日本でこの作品を読む意義は十分にあります。
軍部の圧力に抵抗できなかった外相・首相時代の広田弘毅には、企業や組織の中でさまざまな葛藤を抱える現代人が重なります。
不祥事を起こした場合に謝罪会見が求められるような組織のトップにも、広田の姿勢から学ぶべき点は少なくありません。
組織の中で個人はどう生きるべきかという永遠のテーマを再考する上でも、「落日燃ゆ」は格好のきっかけを与えてくれる1冊です。
A級戦犯の生涯を描いた「落日燃ゆ」
「落日燃ゆ」の出版から40年以上が過ぎ、第二次世界大戦も70年以上という歴史の彼方に遠ざりました。
それでも今なおこの作品が読み継がれている背景には、悲惨な戦争を二度と起こしてはならないという平和への願いが見て取れます。
戦争の記憶がまだ色濃く残されていた時代に生まれ育った世代ほど、その思いは強いものです。