『博士の愛した数式 』小川 洋子(著)記憶と人生の関係を追求

最終更新日:2017年10月6日

映画化をきっかけに原作小説も大ヒットする現象はよくありますが、小川洋子「博士の愛した数式」はその代表的な例です。

2006年に映画化された同書は、文庫版が発売2ヵ月で100万部を突破するベストセラーとなりました。

1.数学と文学の美しき融合

「博士の愛した数式」がこれだけ大ヒットを記録した要因は、映画化によるタイアップ効果だけではありません。

2003年に出版されたこの作品は翌年から始まった記念すべき第1回の本屋大賞も受賞しており、その話題性が映画化と結びついた販売戦略も当たったのです。

寺尾聰が博士を演じた映画版もヒットしましたが、原作の小説は映像に表現しきれない魅力を備えています。

交通事故の後遺症で新しい記憶が80分間しか持たないという元数学者と、彼の家に派遣されたシングルマザーの家政婦やその幼い息子との交流が描かれた感動作です。

作中には数学に関する知識がちりばめられており、難しい数式の意味を元数学者の「博士」がわかりやすく解説してくれる個所が多くあります。

博士と母子との心のふれあいもこの作品の大きな読みどころですが、文学と数学という一見相性が悪そうに思える素材を融合させた斬新さも大ヒットの一因だったのです。

2.数学博士と母子の心温まる交流

元大学教授の「博士」は現在64歳ですが、47歳のときの交通事故で脳に損傷を負い、記憶障害の後遺症が残ってしまいました。

事故以前の記憶や数学に関する才能は残されながらも、事故の後は新しく記憶した事柄が80分間しか残らないという障害を背負うことになったのです。

派遣された家政婦は記憶障害を抱える博士とうまくやっていけずに次々と辞め、10人目として派遣されたのがこの小説の語り手となる「私」でした。

「私」は10歳の息子を育てながら働くシングルマザーで、博士の提案を受けて息子も博士の家に連れて行くようになります。

息子は博士に平方根を意味する「ルート」と呼ばれて可愛がられ、博士と母子との心温まる交流が始まります。

3人でプロ野球の阪神戦を球場まで観戦しに行く場面は、大の阪神ファンだった博士の人間味が象徴されたエピソードの1つです。

作者自身も阪神ファンとして知られており、江夏豊ら往年の名選手の名前が作品に彩りを添えています。

3.随所に挿入された美しい数式

数学を題材とした小説だけに、「博士の愛した数式」にはオイラーの等式などさまざまな数式が出てくる点も他の作品にない特徴です。

文学作品の小説と数式では相性が良くないように思われがちですが、πやe、iといった数学記号が文学表現の中に調和し、予想外の美しい文体が実現されています。

博士が小学生のルート君に対して宿題の解き方を教えてあげる場面では、ユニークな博士流の教え方が発揮されます。

数学や数字に関する難しい知識も、人間味にあふれた博士の口を通してやさしく解説されれば読者にとっても理解しやすいものです。

生涯の大半を旅に過ごした放浪のユダヤ系ハンガリー人数学者ポール・エルデシュが、この博士のモデルとも言われています。

そうした数字や数式が意外に人生や人間関係とも深く関わり、真理を言い当てている場合も少なくありません。

「博士の愛した数式」は文学と数学の融合という、誰もが試みなかった挑戦に成功した稀有の例です。

4.多くの文学賞を受賞した作者

作者の小川洋子はFMラジオの番組でパーソナリティを務め、お薦めの本を毎週1冊ずつ紹介していることでも知られています。

1988年に海燕新人文学賞を受賞したのが作家デビューのきっかけで、1991年には「妊娠カレンダー」で第104回芥川賞を受賞しました。

作者が長男を出産した後に書かれた「妊娠カレンダー」は、妊娠した姉の姿を冷静に観察する妹の突き放したような視点で書かれた純文学作品です。

「博士の愛した数式」とは作風がだいぶ異なるようにも感じられるかもしれませんが、物語の世界にリアリティを与える観察眼と描写力は共通しています。

小川洋子は芥川賞や第1回本屋大賞の他にも多数の文学賞を受賞しており、泉鏡花文学賞を受賞した「ブラフマンの埋葬」や谷崎潤一郎賞受賞作の「ミーナの行進」も文学の魅力を伝える佳作です。

「博士の愛した数式」は本屋大賞に加えて歴史ある読売文学賞も受賞しており、書店員だけでなくプロの作家からも高い評価を得ました。

5.シニア世代にも人気の作品

老境に差しかかった男性と若い女性との交流を描いた小説では、人気作家・川上弘美の「センセイの鞄」も「博士の愛した数式」と同様に映像化されて話題となりました。

高校時代の恩師だった30歳年上の男性教師への恋心を描いた「センセイの鞄」に対し、「博士の愛した数式」で主人公の「私」が抱く感情はもっと複雑です。

作中に登場する「友愛数」に象徴されるように、「私」が博士に対して抱いた親近感は恋愛とは違った感情とも言えます。

博士が患う記憶障害は高齢者を中心に社会問題となっている認知症にも通じる面があるだけに、「博士の愛した数式」は記憶と人生の関係に対する問題も投げかけています。

子育てと仕事の狭間に揺れるシングルマザーも含め、「博士の愛した数式」は幅広い世代の支持を得てきました。

特にシニア世代の人にとっては、3つの異なる世代の交流が描かれたこの作品に共感できる部分は多いものです。

通常の単行本や文庫本に加え、大活字版も高齢者を中心に人気を集めています。

数学嫌いの人でも楽しめる「博士の愛した数式」

「博士の愛した数式」は学生時代に数学を得意としていた人はもちろん、数学が苦手だったという人も感動できる作品です。

数学の魅力が語られるこの作品を読んで、嫌いだった数学が好きになったという人も少なくありません。

数字や数式への愛情にあふれた「博士の愛した数式」は、相手をいたわる人間愛の物語でもあります。