『シッダールタ 』ヘルマン・ヘッセ(著)で自らの内面を深く掘り下げる定年後

最終更新日:2017年10月25日

日本でも人気が高いヘルマン・ヘッセは、「車輪の下」「デミアン」といった作品が代表作として知られています。

この両作品ほど知名度は高くないものの、「シッダールタ」は自己探求の書として欧米では高く評価されてきました。

1.ヘッセ中期の代表作

若きヘッセの自画像とも言える青春小説「車輪の下」や少年の友情を描いた教養小説「デミアン」と比べ、「シッダールタ」はだいぶ色合いの異なる作品です。

小説の舞台となるのはヘッセの生まれ育ったドイツではなく古代のインドで、主人公は一見すると仏教の開祖・仏陀を思わせる人物です。

一般にはお釈迦様とも呼ばれる仏陀の本名がゴータマ・シッダールタだったため、「シッダールタ」の主人公も歴史上の仏陀と同一人物と勘違いされかねません。

しかしながらこの作品に登場するシッダールタは仏陀とは別人の求道者で、仏陀自身も作中に登場してむしろ主人公と対立する存在です。

このように仏教色の濃い「シッダールタ」はヘッセ作品として異色の小説とも言えますが、思想的な深みに達したという点では「デミアン」に劣らずヘッセ中期を代表する名作と言えます。

現在は複数の出版社から文庫本が出されており、ページ数はいずれも200ページ前後で手頃な長さの作品です。

2.古代インド求道者の物語

一種の歴史小説または時代小説としても読める「シッダールタ」の主人公シッダールタは、仏陀と同時代に生きた1人の求道者です。

バラモンの息子として生まれた彼は家庭環境に恵まれながら思想的に満足できず、家を捨てて修行生活に身を投じます。

厳しい修行を通じても魂の解放が得られなかった彼の前に姿を現したのは、悟りに達したことで評判の仏陀でした。

主人公のシッダールタは仏陀の説法に耳を傾けますが、彼はどうしてもその教えに納得することができません。

失望した彼は自身が「小児人」と呼んで見下していた市井の人々の中に分け入って富を得ると、酒や女・賭博といった享楽の日々を送ります。

そんな主人公が最終的な悟りを得るまでの物語が小説「シッダールタ」の主要なテーマです。

全体は主人公シッダールタが仏陀のもとを立ち去るまでを描いた第一部と、遊女カマラとの出会いから彼が悟りを得るまでが語られる第二部に大きく分かれています。

3.西洋思想と東洋思想の融合

「シッダールタ」は仏教思想そのものを小説の形で表明した作品ではなく、作者独自の思想を表現した作品と見なされます。

確かにこの作品は仏教への深い理解なしには書けない真理探求の書ですが、作品の根底にあるのはむしろヘッセが深く根ざしていたというプロテスタンティズムの思想です。

あらゆる愛着の対象や執着心を捨て去ることで解脱を得ようとする仏教思想に対して、「愛」の概念が重要な鍵を握るキリスト教的な西洋思想は一見相容れないように考えられがちです。

「その世界をあるがままに任せ、そしてそれを愛し、喜んでその一員となることを学んだ」主人公シッダルタの悟りは、東洋思想と西洋思想を融合させた独自の境地とも言えます。

欧米作家の中で誰よりも深く仏教を理解したヘッセならではの思想の高みが、「シッダールタ」という小説の形で結実されているのです。

4.仏教にも深い理解

ヘッセがこれほどまでに仏教思想への深い理解を得られた背景には、幼少時代からの家庭環境の影響がありました。

ヘッセの父と祖父はともにインドでの布教経験を持つ宣教師で、彼の生まれ育った家にはインド的な生活様式と宗教的ムードが色濃く漂っていたのです。

幼い頃から仏教を始めとする東洋思想に親しんで育ったヘッセは、縛られることを何よりも嫌う少年でもありました。

規則に束縛された神学校での生活に嫌気が差して脱走したり自殺未遂を起こしたりした経緯は、自伝的小説「車輪の下」の重要なテーマとなっています。

学校を退学して聖職者としての道を捨てたヘッセは、町工場の見習工や書店員などの職を経て詩人としての道を歩み始めました。

1904年に書いた「郷愁」で一躍人気作家となったヘッセは、第一次世界大戦で反戦的立場を表明したため母国ドイツから裏切り者として糾弾されます。

家庭トラブルもあって精神のバランスを崩し、ユング派の精神科医から精神分析を受けたことが作風転換の大きなきっかけとなりました。

5.理想とする境地を描く

精神分析によって精神の危機を乗り越えたヘッセは、小説を通じて自らの内面を深く掘り下げる傾向を強めていきました。

第一次世界大戦でドイツ文壇からの言論攻撃や母国の敗戦に直面し、ヘッセはキリスト教に根ざした西洋思想の限界を悟ります。

古くから親しんできた東洋思想への傾倒を深めていったこの時期に「シッダールタ」を書き、彼は自身の精神遍歴を主人公に託す形で小説として再構築したのです。

「ゴヴィンダ」の表題を持つ最終章では老齢に達した主人公シッダールタが、かつて一緒に修行しながら仏陀の弟子となって決別した友人ゴヴィンダと再会する場面が描かれます。

悩み多き人生を送ってきた末に理想とする境地を得た主人公の姿は、スイスに帰化して静かな晩年を過ごしたヘッセの姿とも重なります。

「シッダールタ」は若い頃に読んでも貴重な読書体験が得られますが、ある程度の人生経験を積んだ中年以降に読むことでよりいっそう理解しやすい作品です。

1人の作家の転機となった小説「シッダールタ」

長年の文学的功績が評価され、ヘッセは1946年にノーベル文学賞を受賞しました。

第二次世界大戦後のヘッセは専ら詩やエッセイを書いて小説からは遠ざかりましたが、85歳で亡くなるまでの晩年は安らかな日々だったと言われます。

その思想的転機となった「シッダールタ」には、人生を穏やかに過ごすヒントも隠されているのです。