人は誰でも人生の後半を迎えると、日常生活の中で肉体的な衰えを実感することが多くなるものです。
人生に付きものの老いをテーマとした傑作小説の1つに、アメリカの作家ヘミングウェイの書いた「老人と海」が挙げられます。
1.ハードボイルド文体の冴える名作
20世紀のアメリカに登場した文学スタイルの中でも、ハードボイルド小説は日本人にも親しまれてきました。
感情表現を極力排した客観的かつ簡潔な表現に終始する作風が特徴のハードボイルドは、ミステリー小説の分野で一大潮流が形成されています。
私立探偵を主人公とするダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーらの作品群がその代表的な例です。
そうしたハードボイルドの文体を文学的に高めた功績では、ヘミングウェイの右に出る人はいないとも言われています。
ヘミングウェイは「日はまた昇る」「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」といった長編小説で知られていますが、同時に短編の名手でもありました。
「老人と海」は日本語訳版を400字詰原稿用紙に換算すると150枚余りに達する中編小説で、ハードボイルドを極めた簡潔な文体を特徴とする傑作です。
日本人の間でも「老人と海」は長く親しまれ、その文庫本は100回以上も増刷されてきました。
2.老漁師の孤独な戦い
1952年に出版された「老人と海」の主人公は、キューバの海岸に面した粗末な丸木小屋に住む老漁夫サンチャゴです。
人生の3分の1を過ごしたというほどキューバの地を愛したヘミングウェイは、この小説もキューバの首都ハバナで執筆しました。
主人公のサンチャゴは84日間も不漁続きに見舞われますが、85日目に大物のカジキを仕留めます。
しかしながらこのカジキがあまりにも巨大だったため船に引き上げられず、主人公は獲物を船に縛り付けたまま港まで引いて行こうとしました。
そこへ血の臭いに誘われたサメの群れが次々とカジカに食いつこうとして襲いかかります。
サメとの戦いの中で主人公は自らの老いと向き合いながら、不屈の闘志をもって孤独とも戦い続けます。
港にたどり着いた頃にはカジカはほとんど骨だけの物体と化しており、老人の戦いも徒労に終わってしまったのです。
3.自分自身との対話が読みどころ
一見すると虚しさだけが残されるかのような「老人と海」のストーリーですが、多くの人は読後に徒労や空虚感とは別の感情を抱くものです。
そこには結果だけがすべてではない文学の力があり、サメとの戦いを通して主人公の内面を描く手法が冴えわたっています。
作品は3つの部分に大きく分けられますが、主人公が1人で出漁する前と漁から戻った後には助手だった少年との会話を通してこの老人の性格が示されています。
それらの中間では主人公1人が巨大カジカやサメの群れに挑む場面が延々と続くため、他の登場人物と会話が交わされることはありません。
孤独な戦いの中で主人公は独白を繰り広げますが、会話の相手は自分自身だったり、時には魚だったりします。
シンプルなストーリーの中にも老漁師の人生の重みを映し出し、主人公に深く共感できるような魅力を持つ小説に仕立て上げた作者の技量はこうした自問自答の場面に凝縮されています。
少年との会話の場面がこの中間部をしっかりと支えており、読後の大きな感動につながっていくのです。
4.自然を愛したノーベル文学賞作家
アメリカで第一次世界大戦後の1920年代から30年代にかけて活躍した作家たちは、しばしばロストジェネレーションとも呼ばれてきました。
ヘミングウェイはこの世代を代表する作家で、彼の作風を特徴づけたハードボイルドの乾いた文体も世界大戦の悲惨な体験を経た喪失感を背景としていると言われています。
実際に彼は赤十字の一員として北イタリア戦線に従軍し、脚に重傷を負います。
ヘミングウェイは以後もスペイン内戦に関わって反ファシスト運動に参加し、それらの体験は「誰がために鐘は鳴る」「武器よさらば」といった長編小説に結実しています。
そうした一方でヘミングウェイは自然をこよなく愛し、釣りや狩猟といったアウトドア・スポーツを趣味としてきました。
1954年には「老人と海」を始めとする文学的功績が高く評価されてノーベル文学賞を受賞しましたが、二度にわたる飛行機事故の後遺症から躁うつ病を発症してしまいます。
受賞から7年後に彼は自殺を遂げましたが、「老人と海」は死後も世界の人々に長く読み継がれてきたのです。
5.人生の象徴を読み取る
わずか数日の出来事を描いた中に主人公サンチャゴの人生が凝縮されている点でも、「老人と海」は名作小説の名に値します。
同じアメリカの小説では巨大なクジラとの戦いを描いたメルヴィルの「白鯨」も広く知られていますが、「白鯨」はクジラに関する科学的記述や捕鯨術に関する薀蓄が多くを占めています。
饒舌で長大な「白鯨」と比べ、類似テーマを扱っていても「老人と海」の文章は読みようによっては説明不足に感じられるほど簡潔です。
無駄を省いた表現でありながら主人公の孤独な戦いには彼の人生が濃厚に象徴されており、言葉で表現されない行間に85年という歳月が見え隠れします。
これこそがヘミングウェイ作品を特徴づける氷山の理論で、表面の言葉に表れる8分の1の部分から残る8分の7を想像させるように書かれているのです。
「老人の海」を読んだ感想も1人1人で異なり、若い頃に読むのと老境に差しかかってから読むのでは受け止め方も変わってきます。
原著とともに「老人と海 」を読んでみよう
「老人と海」は学校の英語教科書にも多く取り上げられてきましたが、全文を通して読んだことがないという人も少なくありません。
氷山の理論に基づいた簡潔な表現を特徴とするヘミングウェイの乾いた文体は、日本語訳でも十分に味わえます。
英語に自信のある人は原文を、そうでない人も文庫本の翻訳で一度読んでみるといいでしょう。