定年後サラリーマンを救う!夏目漱石が「私の個人主義」で語った「自己本位」の真意とは?

最終更新日:2018年1月5日

今から約100年前の講演「私の個人主義」で、当時47歳の夏目漱石は、働くとは?生きるとは?そして社会の中で調和を図りながら充実した自分の人生をどう送るのか?を語っています。
そのキーワードとなるのが「自己本位」という考え方です。いかにもわがままそうな言葉ではありますが漱石の意図する「自己本位」の個人主義の真意は、みんな自分独自の意思をしっかりと持とう、世間体や他人の意見にただ流されるのでなく、自分で自分の幸せをとことん追求しよう、ということです。「自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行く」ことこそが人生の目的なんだと語っています。
この漱石の言葉は、映画「スターウォーズ」の監督ジョージ・ルーカスのこんな言葉と重なります。誰でも生まれながらの才能を持っています。問題となるのは、それを見つけるまで行動できるかどうかです。

「自己本位」の個人主義の真意とは?

この2人の言葉は、私のような定年後のサラリーマンの、まるで霧の中を彷徨っているような状態、これから死ぬまで自分が何をすればいいか、という命題に、ひとつの答えを与えてくれるのです。
漱石の講演内容の概略を下記にまとめてみました。

「私の個人主義」は、大正3年に学習院輔仁会で夏目漱石が学生たちに向けてした講演です。

夏目漱石は、この講演で、人生において漱石が一番大切だと考えていることについて、学生たちに語っています。
まずは漱石自身の人生も振り返り、どんな仕事をして生活資金を稼いだら良いのか全くわからなかった学生時代や下宿代を払う目的で仕方なく始めた教師という職業について話します。
学習院の教師になろうとしたが不採用になったが、もし採用されていたらこんな講演なんかはしていませんね、などと明け透けに言っています。

また、学生時代東京帝国大学で文学を専攻したが、結局のところ文学とは何なのかわからなかったと、告白。それから、たまたま縁があって高等師範の教師になり、その後、またたまたま文部省から話があり英国留学をしたこと。漱石は、その頃の自分を振り返り、なんとなく社会に出てなんとなく教師になっただけ。そのままお茶を濁したまま毎日なんとか無事に過ごしてはいたが、心はいつも空虚だった。せっかくこの世に生まれたんだから何かをしなきゃと思ってはいたが、何をしていいか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独な人間のように立ち竦すくんでしまったと。

そうして、たったひとすじで好いから先まで明らかに見たかったが、どちらの方角を眺めてもぼんやり、ぼうっとしていた。自分の手に一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せると、あせり抜ぬいた。この先自分はどうなるだろうと人知れず陰欝な日を送ったこと。

この漱石の心情は、会社から卒業して、あてどない旅に出たような定年後サラリーマンの身に染みますね。まさに同じような気持ちを感じたことが私もあります。自分の人生の意味が見つからない焦燥と孤独です。

英国へ留学した漱石は、ひたすらロンドン中を歩き回ります。しかし、やはり今後、自分がすべきことが、見えては来ません。文学研究さえ何のためにするのかわからなくなってしまいます。そんなある日、漱石は直感します。
ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘ほり当てたような気がしたのです。

自己本位になれば、自分がこれからやるべきことははっきり見える!

30歳を過ぎていた漱石は、ついに悟ります。今まで自分が五里霧中だったのは他人本位だったからだ。自己本位になれば、やるべきことははっきり見えると。英文学を研究し続けてもなにかしっくりこなかった。それは外国人が書いた批評を鵜呑みにしていたからだ。自分自身で英文額を批評すればオーケーなんだと。
一番大事なことは、他人ではなく自分がどう感じるか。日本人である自分にとっての文学とはどういうものか、自分自身で文学の概念を再構築すればいい、これこそが自分のやるべきことだと確信します。この、他人でなく自分を拠り所にするという自己本位への気づきが、自分自身の存在を肯定させ、生きる意味を生み出すと語ります。

漱石は、今までの自分と同じように人生で何をすべきかわからず、苦悩する魂に向けて語りかけます。

ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫さけび出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊こわされない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡もたげて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄もやのために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲ぎせいを払はらっても、ああここだという掘当ほりあてるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから言うのです。

私たち定年後シニアも漱石の言葉を信じ、自分の才能や進むべき道を掘り当てるまで悩み抜き、行動しましょう。文豪だって同じように悩んでいたんですから。
今、何もやる気が起きずに自宅に引きこもっている人も多いでしょう。私もどちらかと言うとそのタイプです。元々内向的ですし、友達もほとんどいません。というか、今やゼロですね。
家に引きこもってだらだら映画や動画を見たり、本を読んで過ごすのが大好きです。

漱石は、そんな我々を非難しません。

引きこもりたければ引きこもればいい!!

私の知っている兄弟で、弟の方は家に引込んで書物などを読む事が好きなのだが、兄は釣道楽で外に出てばかりとうう人たちがいます。この兄が弟が引込み思案で家にばかり引籠っているのを非常に嫌がり、むやみに弟を釣に引張り出そうとする。弟はまたそれが不愉快でたまらない。しかい兄が高圧的に釣竿や魚籃を持たせて釣堀へ連れていく。兄の計画通り弟の性質が直ったかというと、けっしてそうではない。ますます釣りに反抗心をもってしまった。兄の個性と弟とはまるで違うので仕方がないのです。と漱石は言っています。

引きこもりが厭われることは今でも多いのですが、その考えを漱石は権力と言っています。その権力をつかった個性の押し付けなんですね。漱石の語った自分の主義を押し付ける兄は、我々にとっては妻が該当しそうです。家にいられると邪魔だし、食事の世話だけでうんざりする。毎日外出して!できれば仕事をしてお金を稼いできて!!と叱咤されていませんか?

それでも、我々は、自分のするべきことが見つかるまで、悩み抜き、お互いの性質を尊重するべきことを主張して自分本位の個人主義を貫きましょう。
今こそ、100年前に漱石の語った自分本位の個人主義が広く受け入れられていくはずなのですから・・・。