歴史小説の中でも幕末物は特に人気が高く、新選組を題材とする作品が多くの作家によって書かれてきました。
浅田次郎が2000年に発表した「壬生義士伝」は、知名度の低かった吉村貫一郎にスポットを当てた作品です。
1.マイナーだった新選組隊士が主人公
新選組と言えば近藤勇や土方歳三・沖田総司といった面々が有名どころですが、「壬生義士伝」の主人公・吉村貫一郎は彼らに比べるとマイナーと言える存在です。
新選組を扱った歴史小説として代表的な司馬遼太郎の「燃えよ剣」でも、吉村貫一郎は重要な役割を与えられていません。
現代を舞台とする小説からスタートして歴史小説や時代小説にもレパートリーを広げていった浅田次郎は、自身初となる日本の歴史小説を書くに当たって、知名度の低かった吉村貫一郎を敢えて主人公に選んだのです。
作者はすでに清朝末期を舞台とした歴史小説「蒼穹の昴」で1996年の第115回直木賞候補に名を連ねていましたが、このときは惜しくも受賞を逃しました。
翌年に現代小説の「鉄道員」で直木賞を受賞した後、1998年から2000年にかけて執筆した歴史小説が「壬生義士伝」だったのです。
この作品の成功に自信を得た浅田次郎は、以後も多くの時代小説や歴史小説を書き続けています。
2.主人公を知る語り手たちの証言
新選組を扱った小説でも有名な隊士を取り上げた作品が必ずしも面白いとは限らないように、マイナーな隊士を主人公とした小説でも書きようによっては傑作になる資格を十分に持っています。
主人公・吉村貫一郎自身の肉声に加えて彼を知る人物たちの証言を交互に配し、複数の一人称視点を作中に取り入れているのが「壬生義士伝」の特徴的な構成です。
吉村貫一郎の死から50年近くが経った大正4年を「現在」として、彼を取材する新聞記者が関係者の証言を聞いて回るという設定がこの作品では採用されています。
すでに亡くなった人物について知る人を訪ね歩きながら証言を集め、その人の意外な人物像を浮かび上がらせるという手法は後に百田尚樹「永遠の0」でも採用されました。
元新選組隊士や旧南部藩士など明治維新後も半世紀近くを生き延びてきた人物の証言を、吉村貫一郎自身の肉声を重ね合わせることで彼の実像が明らかとなってくるのです。
それまで守銭奴と呼ばれて蔑まれてきた吉村貫一郎の実像は、家族を心から愛する心優しい男の横顔でした。
3.守銭奴と蔑まれた主人公の実像
作者の浅田次郎は「壬生義士伝」を書くに当たって、子母澤寛の「新選組物語」を下敷きにしたと言われています。
「新選組物語」は「新選組始末記」「新選組遺聞」と合わせて新選組三部作をなしており、新選組に関する資料として多くの作家に利用されてきました。
これらは歴史小説というより歴史読物に近い記録作品ですが、取材当時に生き残っていた古老の貴重な証言なども多く採録されています。
浅田次郎は「新選組物語」に書かれた吉村貫一郎に関する記述を材料としながら、小説家らしい想像力を駆使して「壬生義士伝」の感動的な物語に仕立て上げたのです。
子母澤寛が「新選組物語」に書いた吉村貫一郎の肖像には多分に創作が加わっていると見られ、作中で貫一郎に切腹を命じる旧友の大野次郎右衛門も創作上の人物とされます。
その一方で庶民の共感を呼ぶ人物を主人公に選ぶことは、史実を忠実に描く以上に歴史小説で重視される場合も少なくないのです。
4.読み手を感動させる術
子母澤寛の残した資料の中から吉村貫一郎という妻子を心から愛していた男に着目したのも、浅田次郎独特の嗅覚と言えます。
自衛隊を除隊後に数多くの職業を経験してきた浅田次郎は、小説家を目指して新人賞に応募しながらもなかなかデビューできない日々を送っていました。
そうした苦労と豊富な人生経験が、小説家デビュー後の作品に生かされることになります。
浅田次郎が得意としたのは、現代物や時代物といったジャンルに関わらず、涙なしには読めないような感動物語です。
高倉健主演で映画化もされた直木賞受賞作の「鉄道員」は、孤独な鉄道員の姿を描いた感動作として100万部以上を売り上げるベストセラーを記録しました。
浅田次郎は読者の涙腺を緩ませる絶妙の術を心得ており、読み手の心理を自由自在に操って感動の虜にしてしまう当代最高のストーリーテラーです。
そうした腕前は活劇的展開に陥りやすい新選組物の歴史小説でも遺憾なく発揮されています。
5.歴史小説好きの人は必読
実際に「壬生義士伝」は発売と同時に大きな反響を呼び、テレビの時代劇や映画の原作にも採用されてきました。
2003年に滝田洋二郎監督で映画化された際には吉村貫一郎を中井貴一が演じ、日本アカデミー賞の最優秀作品賞や最優秀主演男優賞など数々の賞を独占しています。
こうした映像版で「壬生義士伝」を観たという場合でも、時代劇や歴史が好きな人なら原作の小説は必読です。
司馬遼太郎などの作品で歴史小説の面白さに目覚めた人にとっても、浅田次郎の作品はまた違った味わいがあるものです。
「壬生義士伝」は権威ある柴田錬三郎賞を受賞したほど文学性の高さも認められた一方では、ながやす巧の作画で漫画化もされています。
古くからの歴史小説ファンばかりでなく漫画を読む年代に至るまでの幅広い世代に親しまれてきた点に、「壬生義士伝」の人気ぶりが窺えます。
敗者が語る裏の歴史を紐解く「壬生義士伝」
表の歴史は勝者の目を通して語られがちですが、敗者の側から見た歴史にこそ熱いドラマが隠されているものです。
時代が大きく変転した幕末、吉村貫一郎もまた敗者の1人として歴史のうねりに飲み込まれていきました。
日本人が失いつつある義の美学を携えつつ、希代のストーリーテラーの手で吉村貫一郎の姿が現代に甦ったのです。