「鑑真」定年後シニアにも学ぶ点が多い不屈の精神で失明や苦難を乗り越えた生き方

最終更新日:2017年12月12日

鑑真と言えば日本史の教科書でもおなじみの偉人で、奈良時代に唐から渡来して日本律宗の開祖となった高僧です。

鑑真は5回にわたって渡航に失敗した結果、両目を失明するほどの苦難を味わったことでも知られています。

1.日本の仏教発展に多大な貢献

鑑真が日本に渡来したのは奈良時代中頃の754年でしたが、54歳にして日本への渡航を決意した鑑真もこのときすでに66歳となっていました。

この12年の間に鑑真一行は5回も渡航に失敗し、5回目に渡海を試みた際にはベトナムに近い海南島にまで船が流されて大変な苦難を味わったのです。

鑑真が両目を失明したのは日本渡来後とする説もありますが、運命に屈することなく初志を貫いたからこそ日本渡航が実現したとも言えます。

大歓迎をもって日本に迎えられた鑑真は戒律だけでなく薬草技術や彫刻技術などの先端文化を伝え、日本の文化発展に多大な貢献を果たします。

鑑真は日本の仏教界に戒律制度を定着させた後も、唐招提寺を建立して数多くの弟子たちを育て上げてきました。

不屈の精神で苦難を乗り越えてきた鑑真の生き方には、今の時代に生きるシニアにとっても見習いたい点が多いものです。

2.若き日本人僧の熱意に打たれ渡海を決意

唐では4万人以上もの人に授戒を行ったと伝えられているほど有名な高僧だった鑑真を、遣唐使船で来唐した2人の日本人僧が訪れたのは鑑真54歳のときでした。

戒律制度が整備されていなかった当時の日本では課税を逃れる目的で勝手に出家を宣言する私度僧が続出し、出家僧の急増と質の低下が大きな問題となっていたのです。

栄叡と普照という2人の若き日本人僧はそんな日本の現状を鑑真に訴え、日本に戒律を伝える人材の派遣を要請しました。

鑑真の教えを受けた弟子が日本に渡って正式な戒律を授ければ、日本にも授戒制度が定着できると彼らは考えたのです。

2人の熱意に打たれた鑑真は弟子たちに呼びかけて日本に渡る者を募りましたが、当時の航海は命がけだったため誰も応える者がありませんでした。

そこで鑑真は自ら日本に赴くことを決意し、21人の弟子たちも随行する運びとなったのです。

3.度重なる渡航失敗と眼病で失明の苦難

同様に命がけで遣唐使船に乗って唐に渡っていた栄叡と普照にとって鑑真の決意は願ってもない結果でしたが、事はそう簡単には運びません。

当時の唐では国民の出国自体が禁止されていたくらいですから、高僧だった鑑真の日本渡航を時の皇帝・玄宗が許さなかったのです。

鑑真一行が密出国の形で出航しようとしたところ、弟子の中に裏切って密告する者が出たため海賊と疑われた栄叡と普照は囚われの身となります。

2人が釈放された後の翌年に改めて出航したものの、今度は暴風雨で船が遭難し引き返す羽目になりました。

3回目と4回目の出航も弟子の密告によって未遂に終わった末、最初の渡航の試みから5年後の748年にようやく船が日本へ向けて出発します。

しかしながらこの航海でも暴風雨に遭って船は海南島まで流されました。

南方の過酷な気候と苦難の航海が祟って栄叡は病没し、深い悲しみの中で眼病を発した鑑真もまた両目の視力を失うという人生最大の危機に直面したのです。

4.6回目の挑戦で実現した日本への渡航

近年の日本でも北朝鮮から来たと見られる木造船の漂着や遭難が相次いでいますが、奈良時代の船には発動機がなく航海技術も未熟でほとんど風まかせでした。

日本と唐とを往復する遣唐使船もしばしば航海に失敗していますが、特に帰りの航海で日本にたどり着けず南海の島に漂着したという記録が目立ちます。

日本から広い大陸に渡航するよりも、中国大陸から日本の狭い目的地までたどり着く方が遥かに難しかったのです。

鑑真は失明してもなお日本渡航を諦めず、待ちに待った遣唐使船が5年後に到着するとその帰りの船に乗り6回目の渡航を試みます。

天が味方してようやく日本の土を踏んだ鑑真は熱烈な歓迎を受け、聖武上皇以下400人に次々と戒律を授けていきました。

大僧都の職を解かれて東大寺を追われた後の鑑真は皇族の旧邸宅跡地に唐招提寺を建立し、70歳以降の最晩年の日々を送った後、75歳で波乱に富んだ生涯を終えて日本の地に骨を埋めたのです。

5.見習いたい鑑真の不屈の精神

日本の仏教界に正式な戒律制度をもたらし、日本律宗の開祖となった鑑真の生涯は、映画化された井上靖の歴史小説「天平の甍」にも描かれています。

栄叡とともに唐の鑑真を訪れた若き留学僧の普照を主人公としながら、日本渡航への揺るぎない決意を持ち続けた鑑真の人徳が格調高い文章で綴られた名作です。

日本史の教科書ではなかなか実感できない鑑真の人物像にも、「天平の甍」のような文学作品を読めば時代を越えて接することができます。

日本に渡来した後も多くの弟子たちに慕われた鑑真の人柄は、国宝に指定された唐招提寺所有の鑑真和上坐像からも窺えます。

日本最古の肖像彫刻と言われるこの彫像は鑑真の弟子・忍基の作で、目を閉じた穏やかな表情に鑑真晩年の境地を読み取ることも可能です。

西に向かって結跏趺坐したまま入滅したと伝えれる鑑真の生涯と不屈の精神は、老いや病に立ち向かおうとするシニアの生きる手本となります。

生涯現役を貫いた「鑑真」の人生を学ぶ

人生は航海にもよく喩えられるように、定年後シニア世代の中にはこれまでの人生で何度も挫折を味わってきた人が少なくありません。

人生の半ばを過ぎてから異国への危険な航海に身を投じ、70歳を過ぎた最晩年も唐招提寺を舞台に生涯現役を貫いた鑑真。

その生き方には、困難な時代を生きるシニアにとっても学ぶべき点が多いものです。