西方の彼方にある、苦しみがなく、幸福につつまれた世界、極楽浄土。
その極楽浄土を現世に出現させたといわれるのが京都府宇治市にある平等院です。
平安中期の最高水準の技を結集した美しい空間は、極楽浄土を体感できる場所でした。
1.極楽浄土の存在をたしかに予感できる場所
平等院鳳凰堂は、中堂から建物が左右に連なる造りで、鳳凰が翼を広げた優美な姿を連想させるものです。
朱と白を基調とする美しい外観で、池の中の島に建てられています。
そして庭園の東には宇治川が流れ、かつて川岸となだらかに連なっていました。
川の対岸は此岸、こちら側は彼岸と見立てられていたのです。
鳳凰堂は東を正面として建てられています。
例えば、彼岸の日没の頃に、池を挟んだ反対から鳳凰堂を仰ぎ拝んだとします。
西に沈む夕日のなかに鳳凰堂が浮かび上がり、その姿は池の水面で揺らめいています。
そこには本尊の姿もあり、背後を振り返ると、暮れなずむ此岸があります。
まさに西方の極楽浄土への入口を連想させる光景です。
水や石、植物などを適所に配置し庭園のなかで、四季の移ろいとともに平等院は限りない美しさを見せてくれます。
極楽浄土に似た時空が、すでに目前にある。
だとしたら、たしかに極楽浄土はあるはず。
人々は、そう予感できたはずです。
2.極彩色のなかで描かれた、美しい自然のお迎え
天井や壁、柱、組物にいたるまで、平等院鳳凰堂の内部全体は、多様な極彩色で装飾されています。
本尊の阿弥陀如来坐像は、金色の御堂に安置され、御堂をとり囲むように壁には52躯の雲中菩薩像が掛けられています。
堂内には、現存する壁画としては最古の大和絵風九品来迎図があります。
いわゆる「お迎えが来る」とき、すなわち臨終の様子が描いたもので、阿弥陀如来が多数の菩薩たちを従え、雲に乗って人間世界に降りてきます。
人間の五感で最後まで残っているのは聴覚であり、そのため菩薩たちは楽器を奏で、合唱しています。
他では見られない、平等院の九品来迎図の大きな特徴は、阿弥陀如来や菩薩たちだけでなく、人々の生活なども丁寧に描かれていることにあります。
山麓に家屋があり、そこで一人の男性が床に伏し苦しんでいます。
何かを祈るような男性、悲しむ女性の姿もあります。
山麓や家屋の周りには大きく描かれているのは、普段と変わらぬ豊かな自然です。
3.圧倒的な美しさがもたらす心の安らぎ
いのちのありようを、平等院は圧倒的な美しさのなかで示してくれています。
美しさがあるからこそ、人々を惹きつけ、安らぎへ結びついていきます。
人は自然のなかで生かされている。
お迎えが来ることは、特別なことではなく、きわめて日常的なありふれた出来事に過ぎない。
生まれ育ち、やがて誰もが老いて死んでいく。
自然や生病老死のありのままを受け入れ、自然や人との関係を結び、親しい関係のなかで看取られて人生を完結させ、旅立っていく。
自然のめぐりのなかへ包み込まれていく。
平等院の九品来迎図が示す世界です。
いのちのありようをそのまま受け入れることで、不安は和らぎ、安らぎが得られ、それが極楽浄土へ近づくための一歩になる。
ただし人々の不安は、論理は理屈で解消できるものではなく、むしろ感情や感性を動かしてこそ解消できるものです。
平等院の創建当時は、末法という時代で、不安な空気が社会を覆っていました。
そのなかで平等院は、徹底的に美しさを追求したのです。
4.往時を追体験できる平等院ミュージアム
平安時代には数多くの大規模寺院が創建されましたが、平等院は戦乱を奇跡的に免れた唯一の史跡です。
当時の建物、庭園、仏像、壁画などはすべて、千年近くのときを超えていまも残っています。
とはいえ、高い建築物が建ち並ぶなど周辺の景色は大きく変化し、また平等院の建物自体が退色するなど、創建当初とは様相が異なってきていのも事実です。
もちろん、かつての平等院の心のなかで想い描くことは可能ですが、いっぽうで最新技術によって追体験することができます。
平等院ミュージアム鳳翔館では、高所に掛けられ、遠目にしか見ることのできなかった菩薩像や国宝など間近で見ることもできます。
極彩色で装飾された創建当時の内部の様子、壁画などはデジタル技術によって再現されています。
千年近く前の平安時代へタイムトリップできます。
この世に存在せず、誰も見たことのない極楽浄土は、人々の想像のなかにしかありません。
ミュージアムでの追体験は、それぞれの人の想像をより豊かしてくれるでしょう。
心を空にして平等院を歩いてみよう
都の喧騒から離れた風光明媚な地にある別世界。
平等院を訪れる人々は極楽浄土を希求しながらも、日常の雑事を忘れ、心身を開放し、楽しんでいたはずです。
強く求め過ぎると、かえって遠のいてしまう。
まずは広大な敷地をゆっくりと歩いてみませんか。
鳳凰堂以外にも数多くの見所がある世界遺産ですので、きっと何かが見えてくることでしょう。