「定年後の居場所を作る」61人は「職場」「自宅」「移住」「自営」「海外」「地域社会」に居場所を見つけた

最終更新日:2018年2月6日

「定年後の居場所を作る」(加藤仁著)は6つの章に分かれています。「職場」「自宅」「移住」「自営」「海外」「地域社会」。これらが、定年後シニアや早期退職者立がセカンドライフを充実させるために見つけた居場所です。
新たな職場や職に新たな居場所を求めたの方々の実例をご紹介します。

新たな仕事や職場に居場所を見つけた定年後シニアたち

ますは、66歳から熊野で適職を見つけた方。この方は昭和9年生まれ(掲載時68歳の元ホテルマン)彼は、地元の高校を卒業後上京、最初はキャバレーで働いて支配人にまでなりますが30歳の時に一流ホテルに転職します。ホテルではレストランのボーイを皮切りに40歳で同系列のホテルの支配人になり、最終的には取締役にまで上り詰めます。

ホテルマンの仕事が天職だったようで、定年後もホテルマン専門の人材会社に登録して、「公共の宿」の支配人に派遣されます。そこの赤字体質を改善し黒字化、従業員のシフトを見直して総労働時間を減らす働き方改革を行いました。これによりサービスが向上し、リピーター客が増えると共に、売上も増加。部下よりも給料は安い派遣の立場のままですが80歳を迎える今も生涯現役を貫かれています。

次は新聞記者から庭師となつた方。昭和11年生まれ(掲載時65歳の新聞記者)55歳まで全国紙の記者で、その後系列テレビ局で番組制作、文字放送会社の社長に。相談役で定年を迎えました。功成り名を上げ、資産も築かれたわけですから、あとは悠々自適良さそうなものですが、何もしないでいることには耐えられない。63歳で東京都高齢者事業振興財団の「植木の学校」(無料)に入学して3ヶ月で修了すると、地元のシルバー人材センターに登録。元銀行支店長だった70代の親方に毎日「ボヤボヤすんな」「もう帰れ」などと叱咤される日々だが、庭師の仕事が楽しいそうだ。自分の身体で稼ぐ収入には重みがあり、生きがい、やりがいを感じるらしい。

彼が庭師の仕事を学んだ東京都高齢者事業振興財団は今「東京しごと財団」に名称変更があり「シルバー人材センター」を統括し「東京しごとセンター」(http://www.tokyoshigoto.jp/ability_development.php)としてハローワークとはまた別の就業支援やセミナーや講習を能力開発支援として行っている。私もちょっと覗いてみようと思う。

鉄道会社で働いていた方。昭和14年生まれ(掲載時62歳)鉄道会社では列車ダイヤ作成担当、駅長に。その後研修室長となり60歳で定年退職。2年間、定年後シニアとして自由を満喫するが、そんな生活が虚しくなった。何かセカンドライフとして働ける仕事が無いかと探していた所「60歳以上に限る」という当時としてはかなり変わった会社の求人募集を見つけた。この部品製造業・加藤製作所(http://www.katog.co.jp/silver/index.html)に再就職。ここは当時、価格競争に勝つためには土日も機械を操業しなくてはならないと考えていた。ところが社員に土日出勤させると、コスト高になるし、労務問題にもなる。解決策として編み出されたのが60歳以上の高齢者を低コストで雇い土日操業することだった。募集した所100人以上が面接に来たという。正社員1.5人分の給料で15人の高齢者が雇えたということで、会社側は万々歳。高齢者の方も年金だけでも暮らせるが、働いてやりがい生きがいを得たかった。給料は少なくても問題ない。設備を土日に動かしたい会社の思惑と高齢者の働きたいという欲求、双方のニーズがぴったりマッチした。土日はわしらのウィークデイという募集コピーも奮っている。
この部品製造業・加藤製作所は今も高齢者雇用を続けている。今は更に多くの高齢者を雇用している。ただ、これからの高齢者は国の財政が苦しいため年金が減らされていく、もうちょっと給料は上げてもいいのではないかと思うが、いかがなものか。

定年の無い会社に60歳の役職定年まで勤めた方。昭和3年生まれ(掲載時73歳)取締役にまでなったが、役職定年後は若い上司の下、一派遣社員として働いていた。この会社では定年になると子会社の財団法人所属となる。そこから元の職場やグループ会社へ派遣されるシステムだ。ただ私の勤めていた会社にも同じようなシステムがあったが、この形はあまりうまくいかないことが多い。しかしこの会社の場合は若い社員達の中に派遣の高齢者をメンバーとして加えるわけではない。派遣の高齢者だけでチームを組み、そのチームを若い社員が指示する方式を取り、うまく機能しているいう。これからしばらく続く超高齢化社会を考えると、このやり方は活用する価値がある。

零細出版社を皮切りに転職を繰り返していた方。最後の会社が定年前に倒産。(昭和8年生まれ、掲載時70歳)どの会社も勤務期間が短かったため年金額が少ない。それで60を越えても働かなければと、ハローワークでビジネスホテルの夜勤の仕事を見つけだす。その仕事に生きがいを感じ、また夜勤なので比較的時間の余裕も持て、会社のインターネットを自由に使っていた。自分のホームページも作り、そこで同年代の人々と交流を始め、オフ会も開始。全く利害関係がない人たちとの日々の交流を楽しんでいる。今のネット社会を先取りしたような方。

日本を牽引してきた有名な家電メーカーで家電製品から半導体、電子部品にFAまで売りさばき、最後は営業統括部長で定年を迎えた方。昭和10年生まれ(掲載時66歳)営業をしながら商品の断片的な知識は身につけたが、その知識はその場限りに必要なもの。何一つ体系的に学んだことはなく、ゼネラリストだが、何かひとつの分野についての深い知識は持っていない。砂を噛むような虚しさを覚え、定年退職後に大学の社会学部に学士入学。阪神大震災が起きた直後のことだったので、自然と関心は社会学から福祉学へと移る。勉学に打ち込み卒業生総代をつとめ、更に大学院へ進学。修了後はさらに聴講生となり、大学のOB会絡みで出身会社との交流も復活している。その後新たに「老人福祉」を専攻する大学生となった。今では老人施設のアドバイザーとして働いている。フェイスブックも活用し、常に新しい仲間を発掘しているようだ。

高校を卒業後タンクローリーの運転手になった方。昭和十四年生まれ(掲載時63歳)タンクローリーの運転手として尼崎、名古屋、神戸の運輸会社に勤務。所長や部長までなり定年退職。運転手時代から多趣味で750ccのバイクでツーリングをしたり、アマチュア無線をするかと思うと、シティマラソンに出場。野菜を作り、太極拳をし、皿回しをし、手品をし、と毎日がめまぐるしい。人との交流が好きで何かしていないと耐えられない性格の方らしい。定年後2年間趣味と遊びに邁進したが、何か心が満たされない。
自動車メーカーの修理工場に故障した車を運ぶ運転手として再就職する。しかし仕事の小さな点が心にひっかかり、しばらくして退職した。仕事をしていても時間が惜しいようなきがしたと言う。退職するまでに稼いだお金でパソコンの周辺機器を買い替えHPを立ち上げ、Twitterもは始める。三味線も始めた。これからの残り少ないセカンドライフは物やお金ではなく、より心を重視して生活したいと思うようになった。その後も北海道にツーリングに行ったり三味線の発表会に出演している。

自宅をセカンドライフの居場所にした定年後シニアたち

繊維業界の元・営業部長。昭和十年生。(掲載時64歳) 定年退職後に社交ダンスと英会話を始めた。また、奥さんが「国際交流会」で活躍していたため、自宅を外国人のホームステイ先として提供し始めた。毎年多くの国の年齢や言葉、性別の違う人達を迎え入れている。2009年には「国際交流会」の会長になった。交流会の活動はかなり活発なようだ。

元・県庁職員(昭和十五年生 掲載時61歳)定年後に「七味唐がらし」の製造販売をしている。在職中に脊柱を痛め、歩行やデスクワークも厳しい状態だった。そのため再就職を諦めた。自分の持っている土地に山椒の木があったため、在職中から七味を作り、知人に盆や暮れに配っていた。定年後はこれを仕事にすることにした。知人の人脈を生かし、ドライブインで販売。材料費が出る位売れれば、生きがいにもなる。

昭和八年生 外資系企業大手に勤務し、総務・財務・人事畑を歩いた。(掲載時68歳) 定年退職 直前に心臓病で倒れた。このため再就職を断念する。その後、大学の通信課程で仏語を学び4年で卒業する。近所の大学の聴講生となり、仏語検定2級、ドイツ語検定3級、中国語検定4級を取得。外資系企業に勤めていたため、もともと英語は得意(英検1級)。ボランティアで地域の日本語教師をしながら、更に、韓国語も学習し始めている。語学学習はライフワークになりえますね。

昭和十年生(掲載時65歳)自動車販売会社を定年退職、在職中に、54歳で厚生年金担当し、年金プランを策定した。その後は営業所新設に関わる土地収用などを担当。行政書士・宅地建物取引主任資格を取得した。定年退職後は行政書士として働き、地域の生涯学習センターの講師もつとめている。

大正八年生’(掲載時81歳)太平洋戦争への従軍を間に挟みながら、メーカーや銀行で働き、定年まで勤めた。その後も卸問屋などで3年、5年と働く。職業安定所や人材銀行に登録し、働き続ける。不幸な生い立ちで10歳で母親、15歳で父親を亡くし母の実家で育った。62歳の時に妻(当時50歳)がくも膜下出血で倒れてしまう。一度は回復したものの妻は63歳で
脳梗塞となり、車椅子生活。仕事を辞め介護したが、先立たれる。一年以上何もする気にならなかったが、短歌を詠むことで、立ち直り、残された日々を気もちよく過ごすことが目標。

明治四十三年生(掲載時89歳) 戦前は仕立て職人として働いていたが、戦争で仕事が立ち行かなくなり、戦後はスポーツ用具店を経営する。しかし70歳を過ぎた頃、区画整理と大型店の進出で廃業せざるを得なくなった。その後は。年金暮らし。マスターズの水泳に出場し、毎日泳ぐ。また、一人旅はスキーバスを利用しスキーツアーを続けている。

定年後シニアの移住、その夢と現実

昭和十一年生(掲載時66歳) NTT副社長を勤めて60歳で定年退官。退職前から北海道に住むつもりで土地を買っていた。北海道移住後、近所の畑を手伝ったりする毎日。山林に居をかまえて自力で生きている。

昭和十年生(掲載時67歳)素材メーカーに勤務し、新規子会社の経理責任者として送り込まれるが、経営不振になり、その責任を問われ左遷される。長野に土地を買い、定年一年前に退職する。自宅を売却して移住。カメラやスキー、温泉を楽しむ。また地元企業の経理や旅館の購買担当、りんご農園の収穫などで働き続ける。学生アルバイトと同じ時給800円だが、長野県の現地に溶け込める仕事で不満は無い。長野県への移住で居場所を見つけた。

昭和十三年生(掲載時66歳)テレビ局に勤務し、演出家、ディレクターなどをつとめるが、子会社へ出向となり、55歳で早期退職。茨城県に農地を買い、米・野菜・ハム・ソーセージなどを作る産直農家となった。数年間の赤字に耐え、60歳を越えた今は、年金が支給され黒字化への目処もたち始めた。

大正三年生(掲載時89歳)薬学・微生物学を学び研究所や母校の教授にまでなった。退官後は地方大学の学長を務める。70で公職から引退。専門書を執筆しつつ、86歳でHPを作成。90歳代半ばまで精力的に活躍。研究者としての著書も多い。見上げた逞しさ。

昭和五年生(掲載時70歳)天文台に勤務し、太陽コロナの観測をしていた。家業が忙しくなったため、退職して手伝う。義父の縁で市会議員を二期勤めた。市長選にも打って出たが、落選。世間から引退する気持ちになり長野に農地を買って移住する。地元の農家と別荘族のちょうど中間くらいの立位置で両者の仲をつないでいる。

昭和五年生(掲載時71歳)広告代理店の管理職だったが定年退職。61歳の時、鎌倉の自宅を売却し、日南海岸の丘陵地に家を建てて夫婦で移住した。スポーツイベントや自治会の理事長もつとめ、地域に根付いた。しかし買い物は車が無いとできない不便な場所。また妻の脚が弱り、近くに病院が無く、出身地による自治会の分裂などにも悩む。スポーツでできた人脈から串間市の農家を紹介され、転居する。ここは徒歩で買い物が出来、役所も近く、生活が成り立つ。日南の家を売り、家賃3万円の農家で暮らす。音楽とスポーツの趣味で仲間を増やし、毎日歩くことで奥さんの脚も回復した。

昭和四年生(掲載時73歳)特殊合金製造会社の管理職だった。建築士の勉強を定年直前に始めた。電気工事士や溶接技術者の資格も取り、房総半島に自力で家を建てる。ところが、小脳内出血で倒れ田舎暮らしは厳しいことになってしまった。健康が第一だと身にしみる話だ。

定年後シニアが移住して、自分の城を創る!

昭和二十一年生(掲載時56歳)空港の売店への物品を調達をする会社で所長を勤めていた。妻は中学の同級生だったが、夫が出世していけば行くほど、元の夫でなくなっていくと嘆いた。自宅を改造し、妻はイタリアレストランを開店。店は繁盛するが一人できりもりするには限界となり、二年で閉店した。夫も妻に影響されて自分が本当にやりたいことをやろうと49歳で会社を辞める。夫婦で話し合い、磐梯山麓の猪苗代に五部屋しかない和風旅館を開くことに。退職金やマイホーム売却代金、預貯金など全てを投じ、さらに銀行から5000万を借りて開業。
夫が、そば粉100%の蕎麦を打ち、お客の目の前で岩魚や田楽、筍などを焼く。現在も営業中です。かなり評価が高いようで、なによりですね。http://www.yuyutei.net/(悠ゆ亭)

昭和十三年生(掲載時64歳)高校を卒業後、松山市の百貨店に入社。店長にはなれなかったが、次長にまでなる。しかし役職定年になり、誰からも指示されないが、指示する部下もいない立場に追いやられる。その後、定年になるが、この後、何もやりたいことが無い。暇に任せて街をぶらぶらしていると、大衆食堂の二階が空き店舗になっているのを見つけた。ひらめいて、喫茶店+ギャラリーをその空き店舗に開店する。この場所を使った地元の趣味人が集まるサロンが7つもできた。ただ、まだお店は赤字で、年金で補填しているということだった。

昭和九年生(掲載時69歳)松本市役所に勤務して市長や助役、収入役の運転手を長年勤めた。その後、苦情処理係や失業対策係も担当し、60歳で定年退職した。全くの素人ながら60歳でラーメン屋開店。
無理をせず、メニューを三品に絞ったのが特徴で、奥さんもお運びとして活躍。お客を待たせない、というコンセプトが受けた。全て自己流だが、素材にこだわり、その姿勢に共感したお客がついた。時々は年金で赤字補填しなくてはならないが、なんとか収支はほぼトントンにある。年に一度は養護老人ホームに出張ボランティアとしてラーメンを作っている。

昭和十八年生(掲載時60歳)元は衣料品メーカーの営業所長で、役員にもなった。しかし会社が業績低迷し、総合商社に買収された。この責任を取り52歳で早期退職。もう会社勤めをする気になれず、単品しか販売しない牛たん屋なら努力して研究すれば自分でも出来るのではないかと開業。開業資金は1千万を国民金融公庫より仮、労働力は奥さんを当てにした。身体の続く限り牛たん屋で生きていくという。

昭和二十二年生(掲載時55歳)知的障害者施設職員として働く。施設の障害者でもできる作業として、竹炭作りを導入、軌道に乗せた。そのまま竹炭の魅力に取り付かれて退職。工房を設立し、竹炭、竹酢液、燻し竹を商品として生活している。

昭和二十年生(掲載時59歳)製紙会社で部長になり、役員にもなれそうだったが会社の業績が悪化。55歳で早期退職。40代から家族みんなで乗馬クラブに通っていた。子供たち3人は馬術大会で
も好成績だった。そこで思い切って乗馬クラブを作ろうと決意する。
商工会議所の創業講座で知り合った講師に紹介され、某施設内に計画中の馬場に誘致される形で、破格の安さで乗馬クラブを開設できた。四千五百坪もある。
障害者馬術、知的障害者や不登校児に対するホースセラピーも目指し、平成13年に営業を開始した。
http://www.hrf.co.jp/

明治四十三年生(掲載時90歳)元国鉄マンで駅長にまでなった。国鉄で団体旅行の企画も担当していたので、退職後は旅行代理店に再就職した。6年間勤務した後、62歳で子供と甥の三人で旅行会社を立ち上げた。90歳の時点では、息子と女性事務員二人、自らは現役の添乗員として働く。2005年に95歳のツアーコンダクターとしてテレビにも出演した。その翌年に亡くなっているが、おそらく世界最高齢の旅行添乗員だったろう。

定年後シニアの仕事は海外にあった!

昭和七年生(掲載時71歳)事務機器メーカーの営業職から関連会社の社長になり、55歳で香港の海外法人の社長になった。ベトナムにも営業していた。60歳で定年となり、ベトナムに、元の勤務先の駐在員的な販売代理店会社をベトナム人と設立。自分は特別顧問になった。この会社が社員550人にまで成長する。その後、ホーチミン市でベトナムの刺繍画や漆絵などの工芸品を展示販売する会社を設立。工芸品作家たちの地位も向上させた。ベトナム戦争後の経済不況に苦しむ人達を随分助けたようだ。

昭和十五年生(掲載時63歳)大手メーカーでに資材調達業務をしていたが、48歳でタイの現地法人に出向。帰国後54歳で独立した。香港でメーカーからプリント基板の注文を受け、中国深圳の工場で製造するビジネスを始めた。6年目で黒字転換!9年目で自社工場を構えた。

昭和十三年(掲載時65歳)発電施設や工業施設、商業施設などで用いられる設備を作る、重電気メーカーで生産部長をしていた。53歳で狭心症になり、55歳で手術。その後退職。

国際交流会に参加しネパールに学校をつくるプロジェクトに参加する。また海外の中小企業を指導育成するボランティアになった。旧知の韓国企業を指導し、月の半分を日本、半分を韓国で暮らす。10年間、給料は無いが、旅費や交通費、韓国滞在中の食費などの実費は韓国企業が負担。日本に帰国している時は地元の中小企業を指導。忙しい日々を送っている。

大正十五年(掲載時75歳)繊維メーカーの取締役工場長だったが、58歳で閑職の参与になった。自分が責任を持つ仕事が無くなり、それが苦痛で退職。61歳から中国へ。外国人留学生として大学に通い、学生寮暮らしをする。実用的な中国語を身につけた上で、アジア諸国の企業に染色技術の技術指導をする。
留学終了後、中国のメーカーに技術顧問として就職。70歳まで働くが、高齢のため中国が長期滞在できる就労ピザを出さなくなる。日本にいる時間が長くなり、閑を潰すために、奥さんと二人でカレー屋を開業。地元の人の貴重なコミュニケーションの場になっている。

昭和十七年生(掲載時60歳)航空会社で整備担当として働く。国家の要人が乗る特別機も担当した。総整備長にまでなるが、整備の仕事はやるだけやったと51歳で退職する。

勇躍タイに渡り、数々の失敗を経て椎茸栽培に取り組む。タイ人24人を雇い、自分たちが住む寮を建る。メイドを雇い、彼女が短大に通う学費も出してあげた。出来る限りタイでの雇用を創り、その儲けをタイに還元したいという。その後もお元気で活躍中とのこと。

地域社会へ背広を脱いだ定年退職後シニア

昭和二年生(掲載時73歳)電機メーカーの元管理職。コンピューター会社の生産部門やソフトウェア会社の人事担当として働く。62歳で定年退職。ところが義母がアルツハイマー病になった。介護を手助けする。義母を見送った後、福祉団体に登録し、在宅介護の支援を行うヘルパーになった。同じような事情でヘルパーになっていた人たちと仲間になり、交流の場として合唱団を結成した。

昭和九年生(掲載時70歳)小中学校の事務員だった。手先が器用で、校章のデザインや理科の教材、花壇や焼却炉なども自作した。定年退職後、町内会長から地域の福祉委員にならないかと推薦される。地域の子供たちに地元の歴史を伝えるようなイベントをいくつも実施。62歳になり、昔はホタルが生息していた川にホタルが戻って来るよう川の整備と養殖をしている。ホタルの里みたいになったようだ。

昭和十年生(掲載時67歳)自動車部品メーカーで工場や営業部門で働いた。60歳で定年退職後、父親の水田と畑を引き継ぎ農業を始めた。収穫したものは友人や知人に無料で配った。最早、金儲けはしたくない。その後、町内会長になり、市役所から宅老所の運営を委託される。デイサービスに似た施設だが、障害があっても無くても高齢者なら誰でも利用できる。茶飲み話ができるような場所のよう。30人のボランティアが集まり、そのうち11人が食品衛生責任者の資格を自腹で取った。それで週2回100円ランチを出し、高齢者を呼び込んだ。農業で収穫した野菜が材料だ。

昭和十二年生(掲載時65歳)広告代理店でコピーライターやCMディレクター、番組プロデューサーとして働き、局長で定年退職。シルバー人材センターの「シニアしごと創造塾」に参加した。その塾の有志でコミュニティFM局をつくろうとする。しかし、資金面や許認可、実際の経営で揉めた。結局、番組を自分たち15名のメンバーでつくり、スポンサーを見つけ、地元の放送局に電波を借りることになった。平均年齢は65歳なので厚生年金が給料だということにし、番組を作っている。2010年に放送500回を迎えた。メンバーはの平均年齢は70歳になり、メンバーも9名になっている。

昭和十五年生(掲載時63歳)元県庁職員で、あと一年で定年というところで、市長から助役になってNPO活動の基盤作りをして欲しいと頼まれる。2年半で退任後、在任中に開設した支援センターのNPO団体に移籍。有償ボランティアとして運営に携わる。勤め帰りのサラリーマンも利用できるよう24時間使用できる施設にした。今は理事長として地域行政の核になる施設として運営中。

昭和十一年生(掲載時64歳)大手メーカーの販売部長として働いた。定年退職後、再就職がうまくいかった。まちづくり市民活動に参加し、「タウンモビリティ」という、足の不自由な高齢者や障害者に電動三輪スクーターを無料で貸し出す活動を始めた。さらに、町全体のバリアフリー化をすすめている。今も5台の三輪スクーターで活動中。三輪スクーターだけあっても、訪問先にスロープや身障者用トイレが無いと結局出かけても仕方がない。スクーター利用者もいなくなる。そのため、「タウンモビリティ」の参加者たちが車椅子に乗ったり、手足に錘をつけ高齢者擬似体験をした。町中を移動し、バリアフリー化すべき場所を行政に指摘。さらにスクーターや車椅子の利用者に付き添うボランティアも養成している。

昭和五年生(掲載時72歳)元証券会社取締役で定年退職。マイホームの近くに高速道路が開通することを知り、まだ30代だったが反対運動の中心に。妥協案で収束した。その時の仲間と、「週末会社」を作った。業務内容は地域のお年寄りへのトイレットペーパー宅配や公園の除草。この会社が地域助け合いNPOになった。介護保険制度のようなサービスを手がける。保健対象外のサービスは有償ボランティアとして対応。グループホームも運営するようになる。

大正二年生(掲載時87歳)鉄工所勤務して定年退職。定年後何もすることがなく、ぶらぶらしていた。妻からボケないために何かした方がいいと言われる。60歳以上歓迎のテニススクールと、入会資格が65歳以上で初心者歓迎、というテニスクラブがたまたま近所にあった。71歳で初めてテニスラケットを握ってみる。
毎週スクールとクラブに通い続けた。8年後に妻が亡くなる。本人は、料理を覚え、テニスも続けている。料理をクラブに持ち込み、会食も楽しんでいる。このテニスクラブは90代の人も、元気にテニスに明け暮れているそうだ。この方は今は100歳を越え、テニスを続けている。定年後シニアには、非常に参考になる事例だと思う。