「定年後の居場所を作る」61人が見つけたのは「職場」「自宅」「移住」「自営」「海外」「地域社会」

最終更新日:2018年1月19日

「定年後の居場所を作る」(加藤仁著)は6つの章に分かれています。「職場」「自宅」「移住」「自営」「海外」「地域社会」。これらが、定年後シニアや早期退職者立がセカンドライフを充実させるために見つけた居場所です。
新たな職場や職に新たな居場所を求めたの方々の実例をご紹介します。

新たな仕事や職場に居場所を見つけた定年後シニアたち

ますは、66歳から熊野で適職を見つけた方。この方は昭和9年生まれ(掲載時68歳の元ホテルマン)彼は、地元の高校を卒業後上京、最初はキャバレーで働いて支配人にまでなりますが30歳の時に一流ホテルに転職します。ホテルではレストランのボーイを皮切りに40歳で同系列のホテルの支配人になり、最終的には取締役にまで上り詰めます。

ホテルマンの仕事が天職だったようで、定年後もホテルマン専門の人材会社に登録して、「公共の宿」の支配人に派遣されます。そこの赤字体質を改善し黒字化、従業員のシフトを見直して総労働時間を減らす働き方改革を行いました。これによりサービスが向上し、リピーター客が増えると共に、売上も増加。部下よりも給料は安い派遣の立場のままですが80歳を迎える今も生涯現役を貫かれています。

次は新聞記者から庭師となつた方。昭和11年生まれ(掲載時65歳の新聞記者)55歳まで全国紙の記者で、その後系列テレビ局で番組制作、文字放送会社の社長に。相談役で定年を迎えました。功成り名を上げ、資産も築かれたわけですから、あとは悠々自適良さそうなものですが、何もしないでいることには耐えられない。63歳で東京都高齢者事業振興財団の「植木の学校」(無料)に入学して3ヶ月で修了すると、地元のシルバー人材センターに登録。元銀行支店長だった70代の親方に毎日「ボヤボヤすんな」「もう帰れ」などと叱咤される日々だが、庭師の仕事が楽しいそうだ。自分の身体で稼ぐ収入には重みがあり、生きがい、やりがいを感じるらしい。

彼が庭師の仕事を学んだ東京都高齢者事業振興財団は今「東京しごと財団」に名称変更があり「シルバー人材センター」を統括し「東京しごとセンター」(http://www.tokyoshigoto.jp/ability_development.php)としてハローワークとはまた別の就業支援やセミナーや講習を能力開発支援として行っている。私もちょっと覗いてみようと思う。

鉄道会社で働いていた方。昭和14年生まれ(掲載時62歳)鉄道会社では列車ダイヤ作成担当、駅長に。その後研修室長となり60歳で定年退職。2年間、定年後シニアとして自由を満喫するが、そんな生活が虚しくなった。何かセカンドライフとして働ける仕事が無いかと探していた所「60歳以上に限る」という当時としてはかなり変わった会社の求人募集を見つけた。この部品製造業・加藤製作所(http://www.katog.co.jp/silver/index.html)に再就職。ここは当時、価格競争に勝つためには土日も機械を操業しなくてはならないと考えていた。ところが社員に土日出勤させると、コスト高になるし、労務問題にもなる。解決策として編み出されたのが60歳以上の高齢者を低コストで雇い土日操業することだった。募集した所100人以上が面接に来たという。正社員1.5人分の給料で15人の高齢者が雇えたということで、会社側は万々歳。高齢者の方も年金だけでも暮らせるが、働いてやりがい生きがいを得たかった。給料は少なくても問題ない。設備を土日に動かしたい会社の思惑と高齢者の働きたいという欲求、双方のニーズがぴったりマッチした。土日はわしらのウィークデイという募集コピーも奮っている。
この部品製造業・加藤製作所は今も高齢者雇用を続けている。今は更に多くの高齢者を雇用している。ただ、これからの高齢者は国の財政が苦しいため年金が減らされていく、もうちょっと給料は上げてもいいのではないかと思うが、いかがなものか。

定年の無い会社に60歳の役職定年まで勤めた方。昭和3年生まれ(掲載時73歳)取締役にまでなったが、役職定年後は若い上司の下、一派遣社員として働いていた。この会社では定年になると子会社の財団法人所属となる。そこから元の職場やグループ会社へ派遣されるシステムだ。ただ私の勤めていた会社にも同じようなシステムがあったが、この形はあまりうまくいかないことが多い。しかしこの会社の場合は若い社員達の中に派遣の高齢者をメンバーとして加えるわけではない。派遣の高齢者だけでチームを組み、そのチームを若い社員が指示する方式を取り、うまく機能しているいう。これからしばらく続く超高齢化社会を考えると、このやり方は活用する価値がある。

零細出版社を皮切りに転職を繰り返していた方。最後の会社が定年前に倒産。(昭和8年生まれ、掲載時70歳)どの会社も勤務期間が短かったため年金額が少ない。それで60を越えても働かなければと、ハローワークでビジネスホテルの夜勤の仕事を見つけだす。その仕事に生きがいを感じ、また夜勤なので比較的時間の余裕も持て、会社のインターネットを自由に使っていた。自分のホームページも作り、そこで同年代の人々と交流を始め、オフ会も開始。全く利害関係がない人たちとの日々の交流を楽しんでいる。今のネット社会を先取りしたような方。

日本を牽引してきた有名な家電メーカーで家電製品から半導体、電子部品にFAまで売りさばき、最後は営業統括部長で定年を迎えた方。昭和10年生まれ(掲載時66歳)営業をしながら商品の断片的な知識は身につけたが、その知識はその場限りに必要なもの。何一つ体系的に学んだことはなく、ゼネラリストだが、何かひとつの分野についての深い知識は持っていない。砂を噛むような虚しさを覚え、定年退職後に大学の社会学部に学士入学。阪神大震災が起きた直後のことだったので、自然と関心は社会学から福祉学へと移る。勉学に打ち込み卒業生総代をつとめ、更に大学院へ進学。修了後はさらに聴講生となり、大学のOB会絡みで出身会社との交流も復活している。その後新たに「老人福祉」を専攻する大学生となった。今では老人施設のアドバイザーとして働いている。フェイスブックも活用し、常に新しい仲間を発掘しているようだ。

高校を卒業後タンクローリーの運転手になった方。昭和十四年生まれ(掲載時63歳)タンクローリーの運転手として尼崎、名古屋、神戸の運輸会社に勤務。所長や部長までなり定年退職。運転手時代から多趣味で750ccのバイクでツーリングをしたり、アマチュア無線をするかと思うと、シティマラソンに出場。野菜を作り、太極拳をし、皿回しをし、手品をし、と毎日がめまぐるしい。人との交流が好きで何かしていないと耐えられない性格の方らしい。定年後2年間趣味と遊びに邁進したが、何か心が満たされない。
自動車メーカーの修理工場に故障した車を運ぶ運転手として再就職する。しかし仕事の小さな点が心にひっかかり、しばらくして退職した。仕事をしていても時間が惜しいようなきがしたと言う。退職するまでに稼いだお金でパソコンの周辺機器を買い替えHPを立ち上げ、Twitterもは始める。三味線も始めた。これからの残り少ないセカンドライフは物やお金ではなく、より心を重視して生活したいと思うようになった。その後も北海道にツーリングに行ったり三味線の発表会に出演している。

自宅をセカンドライフの居場所にした定年後シニアたち

繊維業界の元・営業部長。昭和十年生。(掲載時64歳) 定年退職後に社交ダンスと英会話を始めた。また、奥さんが「国際交流会」で活躍していたため、自宅を外国人のホームステイ先として提供し始めた。毎年多くの国の年齢や言葉、性別の違う人達を迎え入れている。2009年には「国際交流会」の会長になった。交流会の活動はかなり活発なようだ。

元・県庁職員(昭和十五年生 掲載時61歳)定年後に「七味唐がらし」の製造販売をしている。在職中に脊柱を痛め、歩行やデスクワークも厳しい状態だった。そのため再就職を諦めた。自分の持っている土地に山椒の木があったため、在職中から七味を作り、知人に盆や暮れに配っていた。定年後はこれを仕事にすることにした。知人の人脈を生かし、ドライブインで販売。材料費が出る位売れれば、生きがいにもなる。

昭和八年生 外資系企業大手に勤務し、総務・財務・人事畑を歩いた。(掲載時68歳) 定年退職 直前に心臓病で倒れた。このため再就職を断念する。その後、大学の通信課程で仏語を学び4年で卒業する。近所の大学の聴講生となり、仏語検定2級、ドイツ語検定3級、中国語検定4級を取得。外資系企業に勤めていたため、もともと英語は得意(英検1級)。ボランティアで地域の日本語教師をしながら、更に、韓国語も学習し始めている。語学学習はライフワークになりえますね。

昭和十年生(掲載時65歳)自動車販売会社を定年退職、在職中に、54歳で厚生年金担当し、年金プランを策定した。その後は営業所新設に関わる土地収用などを担当。行政書士・宅地建物取引主任資格を取得した。定年退職後は行政書士として働き、地域の生涯学習センターの講師もつとめている。

大正八年生’(掲載時81歳)太平洋戦争への従軍を間に挟みながら、メーカーや銀行で働き、定年まで勤めた。その後も卸問屋などで3年、5年と働く。職業安定所や人材銀行に登録し、働き続ける。不幸な生い立ちで10歳で母親、15歳で父親を亡くし母の実家で育った。62歳の時に妻(当時50歳)がくも膜下出血で倒れてしまう。一度は回復したものの妻は63歳で
脳梗塞となり、車椅子生活。仕事を辞め介護したが、先立たれる。一年以上何もする気にならなかったが、短歌を詠むことで、立ち直り、残された日々を気もちよく過ごすことが目標。

明治四十三年生(掲載時89歳) 戦前は仕立て職人として働いていたが、戦争で仕事が立ち行かなくなり、戦後はスポーツ用具店を経営する。しかし70歳を過ぎた頃、区画整理と大型店の進出で廃業せざるを得なくなった。その後は。年金暮らし。マスターズの水泳に出場し、毎日泳ぐ。また、一人旅はスキーバスを利用しスキーツアーを続けている。

定年後シニアの移住、その夢と現実

昭和十一年生(掲載時66歳) NTT副社長を勤めて60歳で定年退官。退職前から北海道に住むつもりで土地を買っていた。北海道移住後、近所の畑を手伝ったりする毎日。山林に居をかまえて自力で生きている。

昭和十年生(掲載時67歳)素材メーカーに勤務し、新規子会社の経理責任者として送り込まれるが、経営不振になり、その責任を問われ左遷される。長野に土地を買い、定年一年前に退職する。自宅を売却して移住。カメラやスキー、温泉を楽しむ。また地元企業の経理や旅館の購買担当、りんご農園の収穫などで働き続ける。学生アルバイトと同じ時給800円だが、長野県の現地に溶け込める仕事で不満は無い。長野県への移住で居場所を見つけた。