『アルジャーノンに花束を 』ダニエル・キイス(著)で人間の「心」の奥底を探る

最終更新日:2017年10月7日

「アルジャーノンに花束を」は、ダニエル・キイス作のSF小説です。

1959年に中編小説として発表され、1966年に長編小説に改作され、アメリカの著名なSF小説の賞を受賞しました。

映画化もされましたし、日本でも翻案されてドラマ化されています。

1.SF小説の可能性を示した傑作

SF小説というと、それだけで忌避する人がいます。

宇宙人やUFOが出てくる荒唐無稽な小説というイメージは、牢固としたものです。

しかし、実のところ、宇宙人や宇宙船が出てくる小説というのは、スペースオペラと呼ばれているSF小説の一ジャンルに過ぎません。

それなら何がSFなのかと問われると、かなり回答が困難です。

SF(Science Fiction)とは、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称であるという定義があります。

しかし、実際には科学とはあまり関係のない題材を扱った作品も多いのです。

ここであえて定義するならば、非日常的な題材を中心とした小説ということになります。

現実には存在しない「何か」を題材とした小説ということです。

その「何か」を日常の中にはめ込むことで、世界が刺激を受けて劇的な変容をする。

その変容を描く物語と言えます。

要するに、世界に何らかの異物が入り込んだときの、世界の示す変化が物語となります。

かえって、わからなくなったというお叱りがあるでしょう。

しかし、このように表現しないと、この「アルジャーノンに花束を」という小説の魅力を表現できません。

知的障害のある主人公チャーリーは、知能を向上させるという怪しげな実験の被験者になります。

実験は成功し、チャーリーの知能はみるみる向上し、彼は超天才へと変貌します。

しかし、知能が向上した結果、チャーリーは彼のおかれている悲惨な状況を理解し、かえって苦痛を味わうはめになります。

チャーリーはそれまでの生活から疎外され、恋愛や家族との葛藤に苦しみます。

そして、その後、彼の知能は急速に減退を始め、悲劇的なラストへ至ります。

この小説では、チャーリーの視点から、彼の見る世界の変貌が語られます。

彼は激変し、それによって彼の見る世界も激変します。

実際には、世界は変わるのではなく、世界の見え方が変貌します。

読者から見ると、チャーリーの視点から世界を見ることで、メリーゴーランドに乗せられたように変転する景色を見ることになります。

この小説は人間の「心」の物語として、多くの人に感動を与えてきました。

科学ではなく、「心」をテーマとした小説として、SF小説の可能性を示した傑作といえます。

2.差別を描く物語として

この小説では、知的障害者に対する差別が重大なテーマになっています。

物語の冒頭では、チャーリーは幼児程度の知能しかありません。

チャーリーはパン屋で働いています。

チャーリーとしては、仲間たちとそれなりに楽しく過ごしているつもりでした。

しかし、実際には彼は周囲の人間から虐待を受け、蔑まれていました。

そのことに、知能が向上したチャーリーは気づきます。

彼は超天才に変貌しており、今の彼から見れば、周囲の人間は平均以下の知能しか持たないとるに足らない存在です。

チャーリーは彼らに対して、傲慢な態度をとるようになります。

結果として、チャーリーはパン屋を解雇されてしまいます。

このあたりの描写は、非常に読んでいて辛いものがあります。

パン屋の同僚たちのチャーリーに対する仕打ちは、知的障害者への優越感からくるものです。

実は彼らにしてからが、社会の底辺にいる存在です。

チャーリーをいじめる同僚は、自身も身体障害者です。

この男は、不正にも手を染めていて、それをチャーリーに告発されそうになります。

弱いものが、自分より弱いものをいじめて悦に入るという、醜くそしてありふれた光景です。

パン屋の同僚たちがチャーリーを追い出すのは、今まで自分たちがチャーリーにしてきた醜い行いをつきつけられるからです。

何もわからなかったチャーリーは、今では自分が何をされてきたのか、理解できます。

彼らは、罪の意識に耐えられないのです。

自分自身の醜さから目をそらすには、チャーリーを追い出すしかないのです。

実はチャーリーを虐待していたのは、同僚たちだけではありませんでした。

チャーリーの家族もまた彼を虐待していました。

特にチャーリーの妹は、知的障害のある兄に異常な憎悪を向けていました。

チャーリーの母は、息子の障害を受け入れることができませんでした。

父はそんな妻を持て余して困惑していました。

チャーリーは家族に会いに行きます。

淡々と描写が続きますが、それは悲劇とも喜劇ともつかないものになります。

再会した父は、すでに離婚しています。

父はチャーリーにまったく気づきません。

再会した妹は、自分が幼いときにチャーリーにした酷い仕打ちをすっかり忘れていました。

彼女は、チャーリーに謝罪し、泣き出します。

母はすでに認知症状態になっていました。

チャーリーの家族は、おそらくはチャーリーのことが原因で崩壊していたのです。

あるとき、チャーリーは知的障害者が嘲笑される場面に出くわします。

かつて彼がされていたことを見てしまいます。

「身体に障害の人には同情するのに、何故、知能に障害のあるものは嘲笑するのか」というチャーリーの怒りは、読む者の心を抉るものがあります。

自分自身の心の中にある差別を容認する部分と直面しなければならないからです。

3.この小説を傑作たらしめているもの

ここまでこの文章を読んでくださった方は、そんな陰々滅々の物語のどこが傑作なのかと怒っているかもしれません。

しかし、この小説は後半に入って急展開を見せます。

小説のタイトルにある「アルジャーノン」というのは、実験用のマウスの名前です。

アルジャーノンはチャーリーに先立って知能向上のための実験を受けました。

このアルジャーノンに異変が起こります。

知能が急速に減退していくのです。

そして、同じ現象がチャーリーにも起きることがわかります。

この部分の描写は非常に秀逸です。

チャーリーの知能が向上する様子を描いた部分は、かなり読みにくい構成になっています。

これは翻訳者の功績も大きいでしょうが、チャーリーが知性を失っていく描写は、本当にチャーリーその人が書いたのかと思うほどです。

昨日までは、ドイツ語もギリシャ語も理解できたのに、今は何だかわからない。

知識も考える力もどんどん消えていく。

知性を失う恐怖が真に迫ります。

そして、その恐怖さえ消えていくという描写はまことに秀逸です。

ここから、知能を失い元の知的障害者に戻ったチャーリーの様子が描かれます。

チャーリーはまたパン屋で働くことになります。

また、あの同僚たちと一緒に働くことになります。

チャーリーを知らない同僚が彼をまたいじめようとします。

そのとき、驚いたことに、かつて彼をいじめていた同僚がかばってくれるのです。

同僚たちは、チャーリーにしたことを深く後悔していたのです。

この同僚たちの態度の変化によって、ようやく読者は救われた思いになります。

チャーリーの妹もかつての行いを悔いていました。

実は彼女もいじめにあっていました。

原因は他ならぬチャーリーでした。

知的障害のある兄のせいで、彼女はいじめられていたのです。

チャーリーを虐待していたものたちが、決して本当の悪人というわけではなかったという救いが提示されています。

チャーリーは知能が向上したとき恋愛関係にあった女性がいました。

しかし、その女性は元に戻ったチャーリーを一目見て、逃げ出してしまいます。

もはや、チャーリーはその理由がよく理解できません。

しかし、自分の存在がその女性を苦しめていることを悟ります。

チャーリーは彼女から離れることを決意します。

この小説はチャーリーが読者の前から去っていく場面で終わります。

結局のところ、チャーリーは失敗した実験に翻弄されたあげくに、何一つ得るものはなかったのです。

この先、チャーリーには苦しい人生が続くことが暗示されています。

一抹の救いはあるものの、チャーリーは最後まで犠牲者です。

どうしようもない悲劇へと物語は収れんしていきます。

安直なハッピーエンドでは絶対に描くことのできない世界です。

知的障害というのは、人間の力ではどうしようもないことです。

しかし、この小説の読者は、そのどうしようもないことに対する無念さ辛さを感じずにはいられません。

このどうしようもない悲劇性こそが、この物語を傑作にしています。

最後の一文に大きな価値がある『アルジャーノンに花束を』

最後に付け加えますと、この小説は発表まで紆余曲折がありました。

ハッピーエンドにしろという要求が、編集者からあったのです。

この編集者に従っていれば、この小説はだいなしになったでしょう。

ネタバレになってしまいますので、ここでは書けません。

しかし、最後の一文のためにこの小説はあると言っても過言ではありません。

どうか、最後の一文までたどりついてください。