チェコからフランスに亡命した作家ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」は、20世紀文学の中でも傑作の1つに挙げられています。
プラハの春を題材とするこの恋愛小説は世界的なベストセラーを記録しました。
1.映画化もされた亡命文学の傑作
チェコスロバキアは第二次世界大戦中にナチス・ドイツの支配下に置かれていましたが、1945年にスターリン独裁時代のソ連軍によって解放されました。
戦後もチェコはソ連の実質的な衛星国として共産党独裁による全体主義的な支配が続きますが、1968年にはプラハの春と呼ばれる有名な民主化運動が起きます。
もともと共産党員だったミラン・クンデラは反党的活動を理由に除名処分を受けた経歴があり、プラハの春でも政治活動に関わったため作品が発禁処分とされてしまいます。
チェコ国内での作家活動ができなくなったクンデラはフランスに亡命し、「存在の耐えられない軽さ」を始めとする作品を執筆しました。
世界に大きな反響を巻き起こした「存在の耐えられない軽さ」は1988年に映画化され、20世紀の亡命文学を代表する作品として広く知られるようになります。
日本語訳は従来の旧訳版に加え、河出書房世界文学全集の新訳版も含めて現在でも新刊が入手可能です。
2.男女の三角関係を中心に物語が展開
「存在の耐えられない軽さ」には作者クンデラの実体験も色濃く反映されており、自身が経験したプラハの春が作品の舞台背景となっています。
民主化運動に至るまでのチェコスロバキア史も重要なモチーフの1つとなっていますが、ストーリーの中心となるのは男女3人の三角関係です。
主人公のトマーシュは脳外科医でありながらプレイボーイでもあり、複数の女性と交際する軽薄さを持ち合わせています。
そんな彼を一途に愛したのが写真家を目指す女性テレザですが、彼女と結婚した後もトマーシュは自由奔放な女性画家のサビナを愛人としていました。
この3人の男女による恋愛模様がプラハの春の民主化運動とソ連軍のチェコスロバキア侵攻を背景に繰り広げられ、物語は劇的に展開していきます。
小説としての「存在の耐えられない軽さ」は「軽さと重さ」と名づけられた第1部から第7部の「カレーニンの微笑」まで7つの部分に分けられます。
3.プラハの春を背景とした哲学的小説
「存在の耐えられない軽さ」は恋愛小説であると同時に、一種の哲学的小説とも見なすことができます。
冒頭からいきなりニーチェの永劫回帰に関する記述が出てくることでも想像されるように、この作品は作者の思想的な探究心も重要なモチーフとなっているのです。
作中には旧約聖書創世記を取り上げた個所や、心身二元論・反キッチェ論・エロス論が展開される部分も見られます。
「理解されなかった言葉の小語彙集」と称するエッセイ風の断章が配置された個所もあって、従来の小説の枠に収まりきらない奔放な表現や構成がこの作品を特徴づけている魅力の1つです。
そうした哲学的手法の根底には作者クンデラの実存主義的な思想があり、彼にとっての小説は登場人物の実存に関わる主題を追求するための手段として位置づけられてます。
難解に陥りかねない哲学的主題もチェコの歴史や恋愛というテーマを通じて重層的に展開されるため、読者は物語の一部として読み進むことができます。
4.フランス亡命後に執筆された作品
前述の通り「存在の耐えられない軽さ」は映画化もされていますが、映画では原作の哲学的なテーマよりも恋愛物語と政治的側面が強く打ち出されています。
映画を観たという人でも原作の小説を読めば、映像表現とはまた違った文学作品ならではの感銘を味わうことができるものです。
作者のミラン・クンデラは自作の発禁処分を受けてフランスに亡命した後、1984年になってプラハの春の実体験を題材としたこの作品を発表しました。
ソ連軍によるチェコ侵攻の場面などは、その場に居合わせた人でなければ書けないリアルな緊迫感をもって描かれています。
男女の三角関係は恋愛物語でも古典的なテーマですが、それを存在の重さと軽さの対比という観点で描いた点がタイトルに秘めれれた重要な主題です。
重さの象徴としてプラハの春が挫折した故国のチェコを、軽さの象徴として亡命先のフランスを想像するような読み方も可能なあたりに、亡命文学としての隠れたテーマが潜んでいるとも言えます。
5.音楽的モチーフに満ちた文学表現
ミラン・クンデラの父親は、「シンフォニエッタ」などの作品で有名な作曲家のヤナーチェクに師事した経歴を持つピアニストでした。
クンデラ自身も幼い頃から音楽教育を受けてきた影響が文学作品に色濃く反映され、それが「存在の耐えられない軽さ」の魅力に結びついています。
クンデラは小説的対位法を意識した創作手法を編み出し、「存在の耐えられない軽さ」でもトマーシュやテレザの複数視点を響き合わせるように配置しています。
第1部から第7部までの各部は語りのテンポを変化させ、読み手を退屈させないような工夫が凝らされています。
作中にはベートーベン弦楽四重奏曲の楽譜まで登場するほど音楽に意識的だったクンデラのリズミカルな文体は、翻訳でも十分に味わうことができます。
文字の単なる羅列として小説を読むのではなく、音楽を聴くように読むことで「存在の耐えられない軽さ」の持つ味わいはよりいっそう深まるのです。
映画といっしょに「存在の耐えられない軽さ」に触れてみよう
プラハの春という政治的・歴史的な事件を舞台背景として、恋愛小説と哲学的小説を音楽的に融合させた「存在の耐えられない軽さ」は、読書の新しい楽しみ方を教えてくれる傑作です。
この作品を原作とする映画を観た人も観ていない人も、自由奔放で躍動的な文体が日本語訳でも味わえる原作の小説を一度読んでみるといいでしょう。